立ち並ぶビルの谷間に竜の玉
この句、いい句ですね。ビルを建てますと、かならず高さに比例して、まわりの土地を公共の為にしないといけないというのがあるようで、高いビルほど、まわりが広々としておりますね。そこに木立をうえたり、竜の鬚は強い草なので、ビルの空き地によく植えられていますね。そんな現実をよく踏まえた、いい句だなと思いました。
七種や誦じつつも見分けえず
どなたかなと思ったら、○○さんだったんで、なるほどと。皆、すずな、すずしろと言えるんだけれど、どれがどれだかわからない。
願ぎごとの互ひに同じ初詣
この句、うまいのは、「互ひに同じ」。初詣で、そう言えるのは、夫婦か恋人かでしょうね。そうすると、願ぎごとの内容も、お子さんのこととか、自分たちの将来のこととか、そういうほのぼのとした男女の絆というものが、句の背景にあるように思われました。
姫請ひし竜の玉とぞ藍深く
竜の玉というところに俳諧的興味を持って、たとえばかぐや姫が貴公子達に請うたもの、「竜の玉」。「え、こんなものかしら。でも、言われてみれば、この藍の深さは姫の請うものにふさわしいな。」そういう、竹取物語みたいな話を換骨奪胎しながら、眼前の竜の玉の美しさをそういう方向から表現してくる、それも新しいやり方ですね。こういう空想的な句を、この作者もお作りになるようになったことを、嬉しく思います。俳句は眼前の写生でいいんだけれど、空想的な句がないと句が痩せてきます。実は虚子にもたくさんあります。「仲秋や院宣を待つ湖のほとり」とか、歴史物語みたいなものが背景にありそうな俳句がたくさんあるんですけれども、現代俳句というのは、眼前の写生力をぐーっと突き詰め過ぎてしまうと、句が痩せてくる心配があります。いつもこういう空想力は忘れないでいたいものだなと思います。
雪吊や縄のゆるめる三四本
●●さん、(不在投句なのででこの場に)いらっしゃらないから、言ってもしょうがないんですが、出す前にもう少し句を磨いてほしい。掲句でもわかるんだけれども、「雪吊やゆるめる縄も三四本」とすれば、もっと景が見えてくる。句を出す直前にもうちょっと最後の一つをやって欲しいと思いますね。自分の句を引き合いに出すのは恥ずかしいけれど、「つき出せしグーをほどけば竜の玉」。最初は「つき出せしグーを開けば」だったんです。最初は。「開けば」というと、普通に開いてしまう。「ほどけば」と言うと、一本ずつの感じになって、握りしめている手が見えるだろうと思って。最後の最後、もう少し何かないかなと。表現はある一様の表現までは行くんですが、一様の表現まで行った後、もう一回句をみて。これも、「ゆるめる縄も三四本」とする、出句直前の余裕が欲しいように思われますね。