枯茨鋭き棘と真赤な実
題詠の時の作り方というのは、ともかくも素直に自分の記憶の中にある、そのものを思い出して、そのディテールというんですか。できるだけ思い出して作っていくというのが、大切ですね。その作業は結局、本物を見た時によく見るようになる。句を作る機会でもある一方、次の本物に出会った時の心構えを鍛えるので、題詠というのは必要ですね。句として見ると、掲句は平凡のように見えた方があるかもしれないけれど、平凡な部分もあるが、これはよく見ています。きちっと誠実な写生が出来ていると思って、この句はいただきました。
忙しく立ち回りをる焚火かな
これも潤いのある句ですね。「焚火」が冬の季題なんですが、焚火なんていかにものんびりと、暇な人がやっているように見えるんだけれども、性格があって、細かく掃き寄せては、火を着けて、火の着いたところと着いていないところと、細かく分ける人。すぐに如雨露に水を汲んでみるとか、性格によってせわしく立ち回る人もいるんですね。なるほど同じ焚火でも、いろんな性格があって、どうも忙しい人らしくて、動き回って焚火をやっている。焚火の煙は、その人の動きとは別に、のんびりと、ぷわーっと上に上がっている。そんな焚火を描きながら、人間が描けていると思いましたね。
スーパーで娘と出会ひ日短か
この句は、経験そのものを句になさったんだろうけれど、自ずからそこに現代風景といったものが、あると思いますね。「出会ひ」というのだから、同居している娘ではない。別居している娘ですから、どこかの家に嫁した娘でしょう。昔の男性社会でいくと、大体嫁いだ先は、男性が決めるわけで、男性の職場に近いとか、縁あって輿入れをすれば、遠くに住むことも多かったんだけれども、現代社会的な通念では、奥さんの里の近くで、スープの冷めない位が、一番よろしいということになっている。そうなると、掲句は、いかにもありそうな現代の家族、現代の娘と母という感じがよく出ているな。しかも、そのことを一言も説明っぽく言わないで、事実だけ。いかにも忙しい、ちょっとした時間に買い物をしているという感じがあって、いい句だと思います。
干柿の後ろの棹に濯ぎもの
こうやってみると、干柿が二階の一番前の軒下に出ていて、その後ろに濯ぎものがある。干柿の影が濯ぎものに波に映っている。そんなことまで想像されて、楽しい句だなと思いました。
枯茨潮風に実の落ちにけり
これも先ほど言ったように、心を澄まして題詠をしていったら、自ずから海辺の景色を思い出して、赤い茨の実がぽろっと磯原に落ちていた景を思い出されたんでしょう。それを誠実に写生なさったということで、いいと思います。 前にもお話したと思いますが、正岡子規という人は、題詠をあまり評価しなかった。とにかく手帳に書き付けて、ものを見よ。ということを言ったんですね。勿論、当時ですから、題詠が多かったんですが、それでも、実際に見ることをひじょうに重んじた人です。子規が三十五歳で死んでしまったから、嘱目を長く続けてきた人が、題詠と出会った時に嘱目と同じような写生ができるということは、わからなかったんですね。虚子は八十五まで生きたから、それがわかった。虚子の題詠の句はひじょうにリアリティーがあります。つまり写生の技術を身につけることで、題詠の時の写生が出来るようになった。そういう点で、今日のお句はいい句が多かったと思います。態度は写生的であって、でも自分の記憶を誠実に辿っていく。