雨降りの空の向うに初夏ありて
ひじょうに感覚的な句ですね。こういうの、いいと思いますね。なかなか初夏が来ない。待ち望んでいる初夏がなかなか来ない。今、雨が降っているんだけれども、その向こうにあるはずなんだ。という初夏を恋う気持ち。これはこれで面白いと思いますね。初夏と言うのは、今の五月頃になるんですかね。
山荘へ来し余録なる夏わらび
元の句「山荘へ来た余録なり」。「余録なり」と切ってしまうと、余録の方へ、興味の中心が行ってしまう。予期せぬご褒美が余録。自分は行きたくなかったんだけれど、家族が言うのでやって来た。思いもかけず、山荘の敷地の中に夏蕨が生えていて、しいて言うなら、余録というものだね。それが「山荘へ来た余録なり」だと、興味の中心が余録に行ってしまう。掲句のようにすると、「夏わらび」そのものが見えてくる。これも「余録なる」と連体形で結びつけて、一句の中心を「夏わらび」へ持っていかないと、つまらないことになってしまう。
栃の花咲きて連休始まれる
いかにも日本の栃の花の咲き様。ヨーロッパの栃だと、もう少し早く咲き出すかもしれないけれど、日本の栃だと、この頃。いかにも、連休が始まって、都会の栃の花の感じがしますね。誰も人がいなくなったという感じがするかもしれませんね。
山里の底に連々田が控へ
「レンレン」と言ってどうか、「つらつら」と言って、どうか。ただ面白いのは、山里と称していながら、実はある程度高い所に(五箇山とか、そう言う感じですが)村落があって、田んぼは大分下へ下がった所にある。山仕事と田仕事が混ざっているような山村。山里の底の方に若干の水田があって、それが控えているように見えた。というのは、面白いなと思いました。ただ、「田が控へ」だけで、季題になるかどうか。「連々植田あり」ぐらいにしておかないと,季題として「田が控へ」だけではむずかしいでしょうね。
海亀の卵を生むにもはらなる
一生懸命に卵を産んでいるというのを、冷静に「もっぱらだ」「専心」心を籠めて産んでいるという句で、これでいいと思います。ただ、元の句、「もはらなり」だと、ちょっと説明っぽくなってしまいますね。「もはらなる」にすると、もう一回叙述は海亀に戻るんですね。「卵を生むにもはらなる海亀よ」という勢いがあります。ですから、諷詠としては「もはらなる」になさった方が、余韻が出てくるやもしれません。