星空を覆ひつくして桜咲く
実景というよりも、理想的な一つの形を頭の中で描いて、ひじょうによろしき日本画を見るような、気持ち良さがありますね。つまりリアリズムだけではなくて、本来なら星空が向こうにあるはずなんだけれども、今見えていない。でもあるんだぞ。と見えない星空が心の中には見えていて、そして眼前には、桜がこちらを見下ろしている。という上品な、若干理想的な角度を描いた句だろうと思います。
一人守る風の寒さや花筵
これはリアリズムですね。いわゆる場所取りの若い新入社員が「寒—い。」とか言って、「皆こないな。」なんて言っている感じが出ています。「寒さや」でもいいですし、「風の冷たや」なんていうのも言い方かもしれませんね。『寒さ』はちょっと強いかもしれませんね。季題は「花筵」だから勿論いいんだけど、「冷たや」というと、人間関係もそこにちらと出てきて、「一人守る風の冷たや花筵」なんていう方が、句としては、肌理が細かくなるかもしれませんね。それは、それぞれのご判断で結構なんです。
親鸞の寺の小庭の初桜
それ以上のことは私は知りませんが、常州にいらしたということなんで、後でうかがおうと思います。とにかく、親鸞ゆかりの小さな寺があった。「え、ここなんだ。」そこへたまさか行ってみたらば、初桜が咲いてをった。親鸞はひじょうに人間的というんですかね。、高僧と言えば、高僧。普通の人と言えば、普通の人。その親鸞という人を思うと初桜も親しみが感ぜられます。お坊さまというのは、高等なことばかり考えているかと思うと、存外、ふっと人間的なものがある。そこにまた、僕ら、惹かれるんですね。
甘茶などふるまふ句会虚子忌かな
これもちょうど仏生に因んで、そんな甘茶も振る舞われて、という、飲むんですかね。普通、仏様にかけてしまうんですけど、「これ、甘茶ですよー。」と言って、出てくるのかもしれません。いかにも虚子忌らしい感じがしました。