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花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第18回 (平成17年4月8日 席題 花一切・虚子忌)

文鳥の餌の分だけはこべ摘む
どなたかが「やさしい」と言ってらっしゃいましたが、本当にそうだと思いますね。文鳥の食べる餌なんて、しれていると思いますが、それでも散歩しながらも文鳥を、あるいは犬を猫を、あるいは家族を思う、やさしき人物像が目に浮かぶと思います。「鶏にやる田芹摘みにと来し我ぞ」という高浜虚子の句がありますが、それとも趣きが若干違います。こっちの方が柔らかい感じがするかもしれませんね。あれはちょっと寒い春先の感じの句だと思います。
見えたることなけれども虚子忌かな
いまや見えたる人はほとんどいなくなってしまって、『見えたる人』に見えている時代ですから。もうしばらく経つと「見えたる人」にも見えなくなって、そこで初めて虚子の真価が出るんでしょうね。文学史上になった時に、初めて虚子の価値が残るんだろうと思います。
花衣軽ろく泉をひと巡り
「花衣」は花見の時に着る衣です。何を着たって花衣です。大袈裟に言えば、綿入れを着ていたって、花衣。袷というのは、実は俳句では夏の季題なんですね。今、袷は冬のうちから着ていて、夏になると一重になってしまうんですけれど、昔の人の方が寒かったんでしょうね。綿入れを着ているほうが、普通だったんです。この場合は袷なんでしょうかね。軽々とした着こなしと軽々とした生地、それを着た女の人が、ちょっと泉の回りをぐるっと歩いたというのを見ていたのだろうと思います。あるいは一人称と取ってもいいと思います。
ふうわりと飛行船浮く春の空
いかにも春空ですね。「ふんわりと」でなく「ふうわりと」と言ったところに、ある実感があると思います。あまり近くない、遠くの方なんでしょうね。近くだと、ごーっと音がしたりして、あまり可愛くない。遠くだと可愛いですね。
木蓮が香りて散りて人思ふ
いい句だと思いますね。この句は紫木蓮なのかなと思いますが、外側が紫で、内側がけっこう淡いアイボリー。それが咲き始めると、香ってまいります。それが日がたつと、傷んで来て、花弁が折れて、くずれて、散り始めます。けっこうタイムスパンがあるんですね。その間、あの人、どうしているのかな。気になるな。手紙出してみようかな。」と思っているうちに数日が経った。ふっとあの人のことを思った時に、香っていた木蓮がいまやすっかり散ってしまって、「そうだ。まだあの人に連絡も取っていないんだわ。」といったような、感覚的な心の奥のある写生になっていて、いい句だと思います。久しぶりの方がなかなか。特訓でもしていたのではと思います(笑)。前にも言ったことがありますが、俳句は作っていなくても、うまくなります。作っていてもうまくなります。何故かというと、その間に季題とたくさん接しているから。人間は季題と接していれば、作っていなくとも、かならず俳句はうまくなりますから、少々休んでも、自信を持って、お作りいただきたいと思います。