第零句集(第一集)」カテゴリーアーカイブ

夏潮『第零句集』(第一集)の紹介です。

「夏潮 第零句集シリーズ Vol.7」 前北麻里子『誕生日』

「夏潮 第零句集シリーズ Vol.7」 前北麻里子『誕生日』~夫は出てこない?~

 

 「夏潮第零句集シリーズ」。第7号は前北麻里子さん。

麻里子さんは、昭和五十四年生れ。慶應義塾大学文学部で現在のパートナーである前北かおる氏と出会い、俳句を始め、かおる氏と共に数多くの句会に参加。その後、平成十九年に夏潮会に入会し本井英に師事。現在、毎号の『夏潮』で「里山の掲示板」に素敵なイラストを書かれている。

平成22年5月に男児が誕生している。句集タイトルの「誕生日」はお子さんのそれを指すのであろう。扉絵に愛くるしい坊ちゃんとの2ショットが載せられている。

本句集は麻里子さんのゆったりとした人柄がそのまま表現された俳句が並んでおり、すっきり入ってくる句が多い。季題や定型が麻里子さんの生活のリズムになりつつあることを感じる。子育ての句だけでなく、かおる氏に連れて行かれた登山や吟行の句も散見される。子育てで家庭に居ることが多いと推察するが、そのような環境下でも無理なく生活に俳句が溶け込んでいる点に強く感心した。

ところで、私が一番この句集で困ったことは、「旦那連中は子供の句のほかに妻のことを詠むが、奥様連中は旦那のことを(ほぼ)詠まない」という点である。この点、誠に遺憾であるとしか言いようが無い。一人の男子として、詩の対象となりうる美しい存在になれるよう精進をしていきたい。皆様のご協力をお願いしたい。

 と、そこまで書いていて下記の句があることに気がついた。集中第四句目の

色の名を教へ巡るや薔薇の園 麻里子

 八千代の名物に京成バラ園がある。

 ここのバラ園は麻里子さんにとって、大事な吟行場所なのであろう。

  かおるさんの『ラフマニノフ』の最後から三句目に、

薔薇の名を旅するが如巡るかな かおる

という句がある。それに呼応するかの様に、麻里子さんは前から四句目に配置してきた。このように表には現れていない夫婦の交歓が垣間見え、なかなかに興味深い。

怪獣をばらして運び文化の日 麻里子

 麻里子さんはこれからも、沢山の素敵な「吾子俳句」を見せてくれるであろう。その中で掲句は麻里子さんの先生時代(を振り返る)の一句として興味深い。

 季題は「文化の日」。「文化の日」は明治帝の誕生日で明治時代の「天長節」。そういった時代背景を基に現在では、文化祭などがこの時期に行われる。仄聞するところによると、かおる氏の勤務する中学校もこの日の前後に文化祭を行うそう。「怪獣」も昭和と平成では大きく性格が変っている。目がパッチリした、怖いと言うよりかわいい怪獣の人形かパネルかが、分割されて教室へ運ばれていく。その暢気な様はまさに「文化の日」。暢気な様が麻里子さんである。

 「無理をする」ことが無い方だと思うので、マイペースに素敵な俳句を我々に見せていただきたい。敢て申上げるならば句のリズムが「ワン・ペース」に成り勝ちなので、色色な型にもチャレンジしてもらいたい。

 

『誕生日』抄 (杉原祐之選)

らふそくも苺も一つ誕生日

入道雲蛸のお話作りけり

秋桜のぎゆつと詰まりし蕾かな

名月やマロングラッセ頬張りて

顔ほどの落ち葉でいないいないばあ

抱き上げし子ごとマフラーぐるり巻き

吾子の歯の雪のかけらに似たるかな

新しき私の町に雪積もる

残雪を赤きバケツに集めけり

揚げ雲雀瞬きながら昇り詰め

 

関係ブログ

俳諧師前北かおる

 

前北麻里子さんにインタビューしました。

前北麻里子さん

Q: 100句の内、ご自分にとって渾身の一句

A:らふそくも苺もひとつ誕生日

 

Q:100句まとめた後、次のステージへ向けての意気込み。

A:これからも、地道に投句を続けます。

 

Q:100句まとめた感想を一句で。

A:師と友と夫子と見たき桜かな

 

『誕生日』を読んで(矢沢六平)

『誕生日』を読んで     矢沢六平

 

 らふそくも苺も一つ誕生日

 

 僕が勝手に名付けたものに、「秒殺句」というのがある。

 全盛期のエメリヤ・エンコ・ヒョードルもかくやと思わせる破壊力を持っていて、清記用紙にズラリと並んだ俳句群の中から、有無を言わせぬ輝きをもって目に飛び込くる。僕はファイティングポーズをとる間もなく「瞬殺」されてタップしてしまう。そんな俳句のことだ。

 

 最近の経験では、渋谷の深夜句会で、「酔へば泣きデザートも食べ年忘」(岸本尚毅)、というのがあった。僕はこういう句に会うと、興奮してしまい、家の中をせかせか歩き回ったりする。

 

 麻里子さんのこの句に出会ったのは、夏潮の雑詠欄だったでしょうか。

 今回、句集を開いた途端に再びこの句が飛び込んできて、僕はまたまた大興奮。ひとしきり家中を歩き回りました。

 その興奮さめやらぬまま、これより読み進めてまいりますので、もしかしたらトンチンカンなことを言うかもしれませんが、どうぞご海容ください。

 

姫女エン(草冠に宛)たつぷり生けて野点かな

 ヒメジオンと読めばよいですか? 野外のお茶なので、そこいらに生えている花を活け、それが清々しくも可憐なんですね。

 

ベビーカー若葉のカフェに集ひけり

 平日のおだやかな昼下がり。僕ら男たちの知らない世界。

 

緑陰や鳩爺と栗鼠婆のゐて

 何か典拠がありますか? はとジジとリスばばが出てくる童話とか…。緑の深さとよく合います。

 

 他にも、「子育て句」は、素敵な句が多い印象です。

   ベビーカーの横にしゃがみて蓮眺む

   朝顔の種折り紙に包みけり

   タキシードに運動靴や七五三

   抱き上げし子ごとマフラーぐるり巻き

   母が読みひとり子の取る歌留多かな

   ベランダで吾子の散髪春の風

 

 写生句でよいと思ったのはこれらです。

   飛び魚や海に光の糸引いて

   湯剥きして地肌露はのトマトかな

   向日葵のシャワーヘッドのごとく垂る

   鉄球のごとく石榴のぶら下がり

   マンションのドアの数だけ年飾り

   年飾り小さきものがよく売れて

   池も地も満遍なしに花浴ぶる

 

冬の雨三百世帯静まりぬ

 この句にもノックアウトされました。三百世帯、としたところが大手柄であります。

 広々とした畑や雑木林の周辺に人家が点在する田園風景でもなく、家々が密集した下町でもなく、商店が立ち並ぶ町場でもない、三百世帯……。郊外の新開地が見えてきます。

 まだニュータウンを形成するほどではないが、それでもすでに三百世帯からの人々が住み、これからいよいよ新しい町が生まれつつある。そんな碁盤の目に整った区画に、静かに冬の雨が降っている。ささやかにして幸せな未来が予感させられる光景です。

 

 僕はこれを「新開地俳句」と名付けたいと思います。

 僕も東京の西郊で育ちましたので、こうした句を詠んでみたいと、強く思いました。同じ味わいの、次の句も素敵でした。

 新しき私の町に雪積もる

 

夏休み第一日は海へゆく

 そうですね。まずいの一番に海に行きたいですね。湘南電車や内房線のツートンカラーが懐かしいです。

 

我の腕母より長し秋袷

 僕は祖父の形見の秋袷に袖を通してみたことがあります。僕は男としては小さい方の部類に入りますが、それでも祖父の着物は袖が少し短かったです。

 

冬瓜をとろんと煮たり赤き鍋

 イタリアあたりの高級調理機器なのか、ホームセンターで売っている量産品なのか。いずれにしろ、例の真鍮色の鍋でなく、赤い鍋で煮てあると、冬瓜の煮物も俄然旨そうに見え興味津々。スープなのかな。清潔な、白を基調とした現代的キッチンの様子も見えてきます。

 

山小屋の奥に寒さの溜りをり

 客が少ないのか、みんな食堂に出てきていて奥がひっそりしているのか。北国や山国では、寒さは「溜まり」ます。標高の高い場所での寒さの実感。

 

どら焼きを分け合ふ夫婦梅の花

 梅はまだ寒い頃に咲きます。だからこその梅の暖かさに、私達は心を惹かれるのですね。どら焼きを分け合うのは、きっと老夫婦なのでしょう。

 

古雛の眉優しかり雨の寺

 雨降りの寺の、本堂の薄暗さが見えます。

 

 読み了えて、巻頭句で受けた衝撃と興奮が少しおさまってまいりました。

 そこで、ちょいと考えてみました。

 

らふそくと苺とひとつ誕生日

 

 「と」にしてみてはどうだろう。

 簡素で淡い味わいの、別の句になるかもしれないと思ったのですが、やはりここは、「も」でなくてはなりませんでした。そうでないと、「あの日産んだこの児が、もう一歳になったのだ」という喜びが伝わらないからです。年に数度は出会えない「秒殺句」は、どの角度から眺めても、全くいじりようがありませんでした。

   らふそくも苺も一つ誕生日

 名句です。心からそう思います。

 

 

 

 

 

 

『ラウンドアバウト』を読んで(矢沢六平)

『ラウンドアバウト』を読んで       矢沢六平

 

 届いた句集を読み了えて、付箋の付いた句を数えてみたところ、旅の句が多いことに気が付きました。句集名となった句もその中にありました。

 まずはそれらを、掲載順に書き写してみます。

 

 秋燕に出会ひし旅の終りかな

 春寒し唐招提寺に人の無く

 始発待つ春ストーブに二三人

 新涼の谷間の宿へ着きにけり

 秋高し火山情報出てをりぬ

 山門を閉ぢて静かに春の暮

 ポケットに帰りの切符春の旅

 岬へと丘巡るバス秋暑し

 初秋のブルートレイン出発す

 早朝のラウンドアバウト旅の秋

 手を頬に弥勒菩薩や春を待つ

 春めきて笑ふ地蔵に出会ひたる

 花の雨ガイドは傘をささずをり

 焼菓子のありてロッジの窓の秋

 缶みかん供へてありて地蔵盆

 小春日や発掘調査捗りて

 國栖奏の歌終わるとき鳥の声

 

 大学で仏教美術か何かを専攻したお嬢さんなのかな。そんな人物像を思い描きそうになりますが、そうは単純には、問屋は卸してくれません。

 やはり、ラウンドアバウト、が油断なりませんでした。

 早朝のラウンドアバウト旅の秋 美穂

 

 ラウンドアバウトの意味をとっとと調べればよかったのですが、変わったタイトルの句集だなあと思いながら読み進みこの句に出会い、さて句意が分からない。

 早朝、とあるから咄嗟に思い浮かべたのが、ゴルフの早朝ラウンド。アバウトは、若者言葉の「適当・テキトー」の意か。

 旅先でふと思い立ってゴルフをやりました。早朝でした。スコアにこだわらず大らかにプレイしたのが楽しかったです。

 

 うーむ。何かがおかしい…。

 そこでようやくラウンドアバウトの意味を調べ、分かりました。

 これは、信号機のない、ロータリー形式の交差点のことなんですね。ヨーロッパによくある、慣れないうちはタイミングが合わず何時までも出られずにグルグル回ってしまう、ニューカマー泣かせのアレですね。

 

 朝まだきのラウンドアバウト。車も人もほとんど通っていない。今、私は秋の旅の途次にある。

 

 悪くないです。

 でも、なんで句集名なんだろう。『蜜柑』(後述)ではなく、ラウンドアバウトを採ったのは何故なのか。

 ラウンドアバウトに込めた作者の想いは何? 今回、その答えに行き着くことはできませんでしたので、来年また読み返して、ぜひともその真相に迫りたいと思います。

 

 硝子戸の内いっぱいに冬日和 美穂

 しつらへて客を待つ間の小春かな 美穂

 まだ日ざし届かぬ庭の残り雪 美穂

 

 これらの句に感じ入ったのは、作者の女性性の為である。作者は、「家」や「室内」と一体化している。これは、男にはない、女性性なんだと思う。

 冬ぬくし日当りよくて手狭くて 高濱虚子

 虚子のこの句は、自宅を詠んだものなのだろうが、招かれた家の様子を詠んだものだと解釈してもかまわないと思う。「家」と「自分」がそれぞれ客観化されて、別の存在になっている(分かり難い書き方しかできず申し訳ないです)のだ。

 一方、美穂さんの句は、もっと「家」に寄り添っていて、自分と家の「区別」がないとさえ言える。これは、絶対に男にはない感覚で、また一つ、僕ら男に「女の秘密」を公開してくれた。

 

 ある種の「心の手触り」に、じっと心の耳を澄ませた句もあった。よく伝わってくる佳吟である。

 吐く息の白く暫くとどまれり 美穂

 どんぐりを握ってをれば暖かし 美穂

 ぼってりと革手袋の置かれある 美穂

 

 季題を「研究」するのも句作の楽しみの一つかもしれません。そのお手本のようだと思った句がありました。

 ブレーキの音の響いて賀状来る 美穂

 賑ひて二日の中華料理店 美穂

 

 物事の道理を説いただけなのですが、それがしみじみとした味わいとなる句。たとえば、生きかはり死にかはりして打つ田かな(作者失念)

 美穂さんのこの句に、僕はそれを感じました。

 雪として地に降り水に還りたる 美穂

 

 そして、いよいよ「蜜柑」句です。

 蜜柑蜜柑と声出しながら蜜柑剥く 美穂

 

 この句を句集名にしてほしかったのは、僕だけではないのでは? 句集を読んだ全員が、きっとこの句が大好きなはずです。

 たった今散りたる花を拾ひたる 美穂

 これも、同じように好きです。

 

 なんだか、「親戚中で一番可愛がっている姪っ子が久しぶりに家に遊びにきた。幼女から少女になって…」みたいな、胸キュンな感想を抱いてしまいます。違いますか、みなさん?

 昔みたいにチュ〜してあげるから、叔父さんのお膝においで(と僕)。ギャー、気持ち悪い、ヤだよ〜(と逃げ回る姪)。てな妄想を、読後に致しました。

 僕達に幸せな読後感を残してくれる名句ですね。

 読ませてくれて、ほんとにありがとう!

 

 最後にもう一句。

 橋渡る人の影ゆく冬の水 美穂

 このところ古句に興味がある僕には、大変心惹かれる句でありました。簡潔にして格調があると思います。

 

「夏潮 第零句集シリーズ Vol.6」 石本美穂『ラウンドアバウト』

「夏潮 第零句集シリーズ Vol.6」 石本美穂『ラウンドアバウト』

 「夏潮第零句集シリーズ」。第6号は石本美穂さん。

美穂さんは、昭和四十一年生れ。昭和六十年に慶應義塾大学俳句研究会に入会し、本井英に師事。現在編集委員として原稿依頼などを担当して頂き、毎月の「夏潮」の発行に欠かせない一人である。

句集名の「ラウンドアバウト」は、環状交差点のことで、「回り道」の意味もある。「早朝のラウンドアバウト旅の秋 美穂」と言う一句が集中に収められている。

大学卒業後、就職、ご結婚を経て一時俳句から遠ざかった時期もあったと思量するが、現在は俳句と季題がしっかりと生活の一部になっていらっしゃるであろうことが、この句集を読んで理解できる。

美穂さんの俳句はとにかく「素直」。奇を衒ったり派手な言葉を使うのではなく、ご自分が見られたこと、感じられた事柄を素直に詠っている。その結果、読者の心深くに美穂さんの俳句が染み渡っていく。俳句は饒舌より寡黙な文学である。

 

気になる点は、詠まれている季題が少なく「小春」のように百句の中に何句も続けて出てきてしまっている点であろう。忙しい日常の中で、俳句モードになれる時間が限られているとは思うが、句の幅、美穂さんの優しくも鋭い感性を活かすためにも、作家として意識的に句の幅を広げて頂きたい。

 

二日には二日の人出ありにけり 美穂

 季題は「二日」。正月二日のことである。この句は何も言っていない。しかし、その前後に大晦日、元日、三日、御用始など、毎日が季題となる得意な「ハレ」の日々の様子が浮んでくる。

二日には二日の特徴がある。スポーツの世界では、二日にはラグビーの大学選手権準決勝や、箱根駅伝は往路が開催される。元日のサッカー天皇杯決勝や三日の箱根駅伝復路とも違う、雰囲気である。

 そのような「二日」に作者は町に出た。思いのほかの人出があった。その人出は正月の雰囲気を持った人と既に「ケ」に戻りつつある人がいたのだろう。何もいわずに世界を広がっていく佳句。

 

海女道具整へてをる男かな 美穂

 美穂さんは「夏潮」創刊に前後するように、ご主人の転勤に伴い奈良へ数年間御住まいになられていた。それを機に、より俳句に本格的に取り組まれることとなった。この句は、奈良に御住まいの頃、福岡の藤永さんと下名と三名で伊勢志摩を吟行したときの収穫の一句だろう。

 季題は「海女」。句意は一読明瞭。面白さは下五の「男かな」という、切れ字の使い方。

これだけで、強い「妻」と頼りない「夫」の暮らしが見えてくる。それを「哀れ」とも思わず、淡々と妻の海女道具を準備している「男」。その風景をしっかりと描写することで普遍的広がりのある一句に仕上がった。

 

 

『ラウンドアバウト』抄 (杉原祐之選)

ぴんと張り糊の匂ひのうちはかな

どんぐりを握つてをれば暖かし

蜜柑々々と声出しながら蜜柑剥く

天気図は西高東低毛糸編む

賑はひて二日の中華料理店

手を頬に弥勒菩薩や春を待つ

春潮の引きたる浜の砂固く

鹿どちの尻の並びて草青む

ドロップを散らせる如く秋桜

ぼつてりと革手袋の置かれある

 

 

(杉原祐之 記)


関係ブログ

俳諧師前北かおる

http://maekitakaoru.blog100.fc2.com/blog-entry-818.html

『ラウンドアバウト』 石本美穂第零句集を読む (泰三)

 

 


石本美穂さんへインタビューしました。

石本美穂さん

Q:100句の内、ご自分にとって渾身の一句
A:御影堂の屋根は緩やか春浅し
Q:100句まとめた後、次のステージへ向けての意気込み。
A:もっと句会に出ること、に尽きます。
Q:100句まとめた感想を一句で。
A:早春の風はたしかに香りけり

 

 

『ラウンドアバウト』 石本美穂第零句集を読む (泰三)

 私は美穂さんファンである。誤解を与えない様に云えば、美穂さんの俳句のファンである。いや実は人間としての美穂さんのファンでもある。結局ファンなのである。証拠に句会で美穂さんと一緒になる機会があれば、美穂さんの句ばかりを選んでいることが多々ある。ファンとして、頼まれてもないのに、勝手に句評させていただいた。

  最近、岸本尚毅氏の著作の中で、「虚子は俳句に無理をさせていない」という表現にであった。散文にも絵画にも出来ない、俳句にだけしかできない事柄についての言葉である。

 美穂さんの句集を読み、まさにこのことが思い起こされた。目にした季題、体験した人事を無理のない言葉そしてリズムで一句に仕上げている。一読して意味は明解、口に出して読むと気持ちがよい句ばかりである。

この句集のほとんどすべては、季題に忠実な写生句なのだが、その場にいるすべての人を温かな気持ちにする美穂さんの人柄がにじみ出ているように感じた。

 

秋燕に出会ひし旅の終りかな

季題は、秋燕。帰る燕のこと。旅の終わりの切なさが、去りゆく秋燕のあわれに重なった。かといって、センチメンタルな感情に流されてはいない。というのも、やはり切れ字の「かな」が効いているのだと思う。「終わりかな」と言い切ったことで、この旅も充実したもので、もはや旅に未練はないといった感覚が表現されているように思う。

秋空を自在に飛んでいる燕の姿が目に浮かぶ気持ちの良い句である。

 

どんぐりを握つてをれば暖かし

 拾いたてのどんぐりは冷たい。握りしめておくと、手の熱がどんぐりに伝わって暖かくなって行く。そして、握りしめている手を逆に温めてくれる。たくさん拾ったのであれば、袋やポケットに入れるのであろうが、手にしたのは2,3個。手の中に入れて持ち帰ったのであろう。読んでいると気持ちがぽかぽかしてくるような暖かい句である。

 

蜜柑々々と声しながら蜜柑剥く

 季題は蜜柑。こう云われてみれば、私も蜜柑蜜柑などと云いながら蜜柑を剥いているような気持ちがする。果たしてリンゴはどうだろうか。おそらく、リンゴリンゴなどと云いながら、剥くことはしない。なぜ蜜柑は蜜柑蜜柑などと云いながら剥くかというと、気楽に手で剥けるからだろう。炬燵に座ったまま、それぞれが勝手に剥いて食べる。ある人は、独り言を言いながら剥いて食べている。ああ、この句はまことに蜜柑の句だと思う。

 

しつらへて客を待つ間の小春かな

 大事なお客様なのだろう。念入りに掃除をし、迎える準備をした。「設える」のだから、茶会や句会といった何か特別の事をするのかもしれない。準備が終わりふっと一息ついたとき、小春を感じた。忙しさから離れたときに感じる自然の恵みを飾らない言葉で一句に仕上げた佳句である。

 余談だが、この句が出されたのは、池袋の夜句会。私は特選で取らせていただき、以来ずっと記憶している句である。

 

雪として地に降り水に戻りたる

 雪が降ってきて、地について水に戻った。工夫は「水に戻りたる」という下五にあろう。なるほど、雪とは元々空気中の水分が凍ったもので、もともとは水である。自然の大きな営みを感じさせる句である。しかし、散文ではわざわざこんなことは云わない。俳句だけがこのようなこと、自然の当たり前の理を歌う。俳句にしかできないことを無理のない言葉で一句に仕上げている。

 

『ラウンドアバウト』抄 泰三選

急流の緩みしところ水の澄む

御降りに万物濡れて静かなり

水色のスカート夏の老婦人

フリージア腕いつぱいに抱えたし

早朝のラウンドアバウト旅の秋

くたくたとなりて山茶花なほ残り

まだ日ざし届かぬ庭の残り雪

鹿どちの尻の並びて草青む

水切りの石よく跳ねて冬ぬくし

 ぽつてりと革手袋の置かれある