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花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第37回 (平成17年9月9日 席題 狗尾草・夕月夜)

石積みし舟曵く船や夕月夜 

「夕月夜」という題を出してみて、みなさんがあまり夕月夜というのを、気になさらずに暮らしていられるんで、むずかしい題でしたね。今日は葉月五日で、五日月がかかっているんですね。これが十五日になると,今月の陽暦でいうと、九月十八日ですが、十八日、日曜日が中秋の名月ということになります。俳人というのは、不思議なもので、この中秋の名月を、特別に愛づるんですね。前の晩が小望月、その日が名月、翌日が十六夜月、ぐずぐずして出てくるから。それから立って待っているうちに出てくるから、立待月。立って待っていられないから、居待月。横になって待っているから、臥待月。それから最後に宵闇という、毎日毎日月を愛づるという、俳人の一種の風狂ですね。その伝でいくと、ちょうど今日あたりが、夕月。夕方に月が西の空にかかっている間。三日月より太くって、まあ上弦の月ぐらいまでの感じ。ちょうど、この二、三日が 夕月。夕月夜。あるいは宵月ですね。むずかしい季題ですが、やはり秋風が立って、この月が丸くなったら、中秋の名月なんだよという、一抹の寂しさ。もう夏のかけらがほとんど消えかけた、その気分が夕月夜なんでしょうね。 「舟曵く船」で、舟というふねと、船というふねと書き入れて下さって、なかなか苦労がある。石を積んだ舟は、いわゆるダルマ舟というんでしょうね。ものを載せるだけで、自分は動かない。それが舟で、それを汽船がワイヤーロープかなにかで、引っ張っている。まあ、舟と船と書き分けなくても、両方「船」でいいと思いますね。つまり石を積んだという、あまり高くない、台船というんでしょうかね。低い船に低く石が積んである。高く積んだら、沈んでしまいますからね。そこの低いシルエットと夕月の細々とした感じがいかにも匂いあっていて、涼しい夕方の風が感じられましたですね。

声だけの応へおくらの花の中

おくらの花というのは、紅蜀葵とか、黄蜀葵の類いで、つまり派手な葵科の花が咲くんですね。あんな美味しいものになるとは思えないぐらい、きれいな花なんです。その花盛りのおくら畑なんでしょう。葉もあるし、花もあるから、ちょっと人がどこにいるかわからない。「おーい。」と言うと、「ああ、いるよ。」なんて、声はするけれど、姿はまだ見えない。そんなおくらの実からは想像できない、花のあでやかさも、この句を活かしていると思いますね。

狗尾草たおやかなるを風の愛で

うまいですね。狗尾草、猫じゃらしとも言いますが、狗尾草、すなわちそのたおやかなるものを、今風が愛でてをるよ。勿論、そう言いながら、作者が愛でているわけですね。

ざくろの実朝日集めてゐたるかな

何でもないんだけれども、ざくろの実の形がちょっとごつい、その感じ。そのざくろの実が朝日を集めているということで、そう沢山なっているわけではない。いくつかの実が見えて、それが乱反射する。まん丸ではない。そこが、ざくろの実らしいと思いました。

萩の庭今日はバイエル何頁

いろんな解釈ができるんですが、萩の庭を愛づるような人ですから、大人の女の人が主人公と解釈しました。となると、バイエルを弾くはずはないんで、それはお稽古にくる子が「今日はooちゃんが来るから。バイエル何頁なんだわ。」ということで、別にさらう必要は無いんだけれども、そういうことを思いながら、お稽古の子供が来るまでのちょっとの間、洋間のガラス戸から、庭の萩の花を見ているという、落ち着いた大人の、やや老いた、ピアノの先生のように感じました。