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花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第51回 (平成17年11月11日 席題 八手の花・鷲)

厳然と住持の墓所や木の実降る

 これはなかなかうまく行っているお寺ですね。住持のお墓がかっちりあるというのは、経営がうまくいっている。古くからの裏山も売らずにあって、木の実降るというのもいいと思います。

長城の果つる峰にぞ鷲の棲む

 やはり八達嶺なんでしょうね。西へ行くと、嘉峪関がはずれなんですが、砂漠の中でとても鷲の棲めるような所ではない。長城は日本で考えるより、ずっと急峻な尾根についているということが、むこうへ行ってみるとわかる。なるほど、鷲と似合うと思いますね。

一行の降り籠められし紅葉宿

 これもいいですね。別に旅館でなくても、茶店でもいい。窓越しに染まった紅葉が見えているんだけれども、ともかく降られてしまったので、寒くてしょうがない。熱いお茶でも飲みながら、雨の止むのを待つんだけれど、背中が濡れて寒い。元気のいい男の人は一杯飲もうかと言う。そんな一行のさまざまな反応が想像できて、面白かった。

天草にルルドの聖母茨の実

 これ、面白い句ですね。ルルドのマリア様の像は、東京のカテドラルのもあったと思いますが、世界中にある。この句の面白いのは、天草の乱の悲劇よりずっと後に、ルルドのマリアの出現というのがある。ルルドの聖母の出現というのは、江戸の終わりから明治の頃(十九世紀半ば)。天草の悲劇はそれよりもずっと前(千六百三十七—八年)。天草に残っている信者さんが、ルルドの話をその後聞いて、そのマリア様をお祀りしているというのが、すごく面白くて、この句、複雑な句で、いいと思いました。茨の実も適っていると思いました。

嘘悲しく病棟出れば柿落葉

 これも、しんみりして、いい句でしたね。花丸を上げたいぐらいなのは、「嘘悲しく」の字余りが本当にいいです。これが「嘘悲し」だと、全然悲しくないです。勿論、普通に鑑賞すれば、大変な重病で、それを患者に言えない。嘘をついて、出てきた。というのが、まっとうな鑑賞ですが、そうでなくても、患者さんがわかっているのに、嘘をついて、強がっているなんていうのも、一つの鑑賞で、いろんな方向から鑑賞できる、懐の深い句だと思いました。「病棟出れば」で、「病院出れば」ではない。まだ病院の敷地内。病院の敷地内の柿落葉なんです。そうなると、都会ではない、郊外の病院かもしれないということが想像できて、そうすると見舞にすこし時間をかけて来たのかもしれない。そうだと重病かもしれない。とか、いろんなことが感ぜられて、この句はなかなか上等な句でした。

茶の花や指図の僧の声太く

うまく行っているお寺ですね。これもね。大きなご法事があるんで、張り切って指示をしている。その法事の前の興奮ぶりが出ている。それを鎮めるように、茶の花がひっそりと咲いている。

花八手ケンケンパーで日が暮れて

なるほど、子供の頃の遊び、石蹴りをしていてる。さっきまで、花八手の白が見えていたのが、ちょっと薄暗んでくる。あ、日暮れだから帰ろうという、久保田万太郎にでも、ありそうな世界だなという感じがいたしました。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第50回 (平成17年11月11日 席題 八手の花・鷲)

見つめればこれも花なり花八手

 こういう作り方があるんですね。これも花なりと言われてみれば、そうかなと。この句のいいところは、「これも花なり花八手」の花の音の繰り返しに、ある気分がある。と思われました。

稲雀風にさからひ飛び立てり

 これ、うまいですね。どちらから飛んだっていいんだけれど、風に逆らって舞い上がった時には、稲雀の形が全然違う。煽られて、雀の形が乱れてしまっているんでしょうね。そこにある哀れがあって、なるほどなと思いました。

点々と猫の足跡冬廊下

 「冬廊下」はちょっとつらいんだけれど、あら、どこから上がってしまったのかしら。と、舌打ちする感じはよくわかります。そして、冬廊下ということで、磨かれて、よく拭き込まれている廊下だってことも、よくわかります。

シャンソンの教室いでて小春かな

 これもいいですね。いかにも日本らしい小春という季題と、シャンソンの教室があるというところで、パリにも小春なんてあるのかなあと思いながら歩いているという感じもすると思います。

冷ややかにイサムノグチの石ひかる

 最近どっかで展覧会をやってましたね。なるほど、今までになかった日本人離れしたフォルムみたいなものが、「冷ややか」という捉え方になるんだろうと思いました。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第46回 (平成17年11月11日 席題 八手の花・鷲)

蕾とて苞とて無骨八手かな

 この句のいいところか、わるいところか、わからない。下五の「八手かな」の置き方がまことに不思議なリズムなんで、よいところと言えばそこかもしれないし、瑕と言えば、瑕かもしれない。どのみち、八手は蕾みの時は仏様の螺髪のような粒粒になってたのが、一つずつ離れてくると、花が咲く時になると、稲の花のような細い雄蘂が出てくるんですが、それが終わってしまうと、八手の実になる。こんど、竹の筒に入れて、鉄砲の玉になるんですね。ま、無骨だということは、たしかだと思います。

神前に小言いわれし七五三

 七五三のお参りに来たんだけれど、何か駄々を捏ねるもんだから、神前だけれど、小言を言われて、はんべそをかいてしまっている。元の句「神前の小言」。というと、神前の小言というのが、あるように聞こえてしまうので、「神前に」とした方が素直でいいでしょう。

将軍像視線の先に冬紅葉

 どんな将軍だかわかりません。坂上田村麻呂だって将軍だし、源頼朝だって将軍だし、あるいは家康だって将軍だし、フランスのフォッシュ将軍だっていいんですが、ともかく、武を張って立っているという人間の像が、今冬紅葉を見ている。というと、盛んな赫々たる戦功の時と、戦が終わって、段々ものごとが落ち着いていく静かさ。その将軍の像の目が冬紅葉を見ているなんていうことを考えると、冬紅葉の気分がよく出てますね。これが紅葉の盛んな時の感じでは面白くない。

梁太き部屋にねまりぬ蛇笏の忌

 此の頃、蛇笏が死んだんですかね。(忌日、十月三日)山梨県の境川村という村があって、そこの大百姓の息子で、東京の早稲田へ出てきて、早くに境川に戻って、一生アマチュアの大物みたいな俳人だったんですが、「梁太き」というので、甲州の大百姓の蛇笏の印象があると思いました。

秋天や眼下に博多志賀の島

 不思議な句ですね。秋天やというと、普通、下から見上げて秋天なんだけれど、この句は自分が秋天にいる。自分が秋天に舞い上がって見ると、「博多だわ。砂嘴がずーっと伸びているのが、志賀の島。」見た瞬間に志賀の島だとわかる。それをちゃんと詠んでいるところが、ちゃんとした手だなという気がしました。この句の面白いのは、下から見上げた秋天ではなくて、自分が秋天にいるという、芭蕉さんが聞いたら、びっくりするような句だなと思いますね。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第45回 (平成17年11月11日 席題 八手の花・鷲)

花八手故宮の奥へ続く道

一目、北京の句だろうということですが、なるほど、石をずーっと敷き固めたような所での、あちこちに前栽のような植え込みがある。その一つに花八手があった。「故宮の奥へ続く道」ということで、故宮の規模の大きさと、建物の感じが奥へ奥へあるという感じが、なるほど冬を迎えた北京の感じかなと思いました。

山頂の散り尽しをり紅葉山

 よくものを見てますですね。東山魁夷の絵のその後みたいな感じで、全体が紅葉山になっていたのが、いつか上の方が枯れてしまって、そこだけ茶色っぽくなってしまっている。そこが一つ俳諧なんでしょうね。山頂までびっしり紅葉だったというだけでは、ありそう過ぎて、らし過ぎて、採らないけれど、それが頃を過ぎて、山頂は枯れているというのは、俳句らしい写生の目があるなと思いました。

長城にせまる野山の錦かな

 もともとは長城は木立のないような所だったかもしれませんが、八逹嶺辺りへ行くと,今や豊かな森になっています。そこが野山の錦があるというんだけれど、「せまる」というところで、長城の持っている歴史、外から夷狄が迫ってくる、そんなことばの印象があるかなと思いますね。これをあんまりやってしまうと、俳句が臭くなってしまうので、まあここまでかなと思いますね。

連れだってちょっと近所の酉の市

 これ、面白いですね。勿論、鷲(おおとり)神社。もともとは三島大社が酉の市の一番の根源なんですが、それから江戸のもっと北の方の、足立区の先の方にあったんですが、その酉の市が博打で有名で、お取り潰しになったんで、今の場所が健全な酉の市となった。(と言っても、その日は吉原がたいそう賑わった。)

檻の内半眠の鷲動かざる

 寝ているんだか起きているんだかよくわからない。よく見れば、目が覚めているんだなというような、そんな鷲の感じがあって、いかにも檻の鷲の句として上出来です。