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花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第93回 (平成18年7月14日 席題 ブーゲンビレア・西日)

女世帯百合に囲まれ住まひをる
作者がいないんで言ってもなんですが、「世帯」と「住まひをる」が重なっているのが、気になるところです。かと言って、「女世帯百合に囲まれをりにけり」では、漠然としているし、ではどうするかと言っても、すぐに方便はみつからないんですが、ただ女たちが百合を丹精して、庭には百合がたくさん咲いていて、そこにお母さんと娘二人と、もしかして孫娘とか、そんな男なしの暮しがあるなんていうのは、ちょっと小説的で面白いですね。中には嫁ぎ先のない老嬢がいて、ぽそぽそした会話が夜いつまでもあってという、そういう感じがします。
敷石のごとき碑椎落葉
これ、いいですね。日本のこととも言えるし、なにか西洋あたりに敷石みたいになっている碑、あるいはお墓もそうですし、そんなちょっと変った碑の周りを椎落葉が、しっかり囲んでいる。つまり日差しがなくて日陰になりやすい所。誉めた碑というより、烈士が亡くなったとか割腹したとか、そんなような感じが想像できます。
海昏き日の鎌倉や風涼し
そうですね。一時代前の鎌倉の曇った日や雨の日は、誰も外に行くわけではない。でも、風は涼しくて、それはそれでいいという、鎌倉という町の山並みや海の水平線の感じを思うと、これはこれで一句になるんだなと感心しました。
古梅を潜めて酒精あめ色に
元の句、「あめ色の酒精に潜む古梅や」。ことばの順番を換えるだけで、それらしくなるということを覚えていただければいいと思いますね。
しばらくは見とれて夏の空と雲
若いですね。雲の感じが、ひじょうに張りがあって、「ああ、夏だ。」あるいは「ああ、梅雨が明けた。」と思って、見とれて、ぐるっと踵(きびす)で一周廻って、「ああ、雲も空も本当に夏だ。」同じ年恰好の私も、こういう若い気持ちを持ちたいものだと思います。


花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第32回 (平成17年7月8日 席題 川床・金魚)

先立っての一言

今日は全体的に理屈っぽい句が多かったですね。理屈っぽいというより、こう言わんとしてますから、誤解のなきように。というメッセージが入っている句がありました。それは、損ですね。俳句の時はね。句が自由に楽しめなくなる。メッセージ性はどうしても入ります。それを消す技術をお磨きになる必要があります。今日、ふるわなかった方は胸に手を当ててみると、「あ、なるほど。言わんとすることを、読者に誤解するなよと、ひと味付けてしまったな。」ということがあって、それを悉く採らぬ親切をさせていただきました。

下塗りのペンキ白々梅雨長し
下塗りのペンキですから、その後でまた上塗りをするようなことでしょう。具体的にどうということはわからないんですが…。その白々としたペンキをみるにつけ、「どうも今年の梅雨は長いなあ。」と思ってをるということですね。理屈を言ってしまえば、梅雨に入る時の風を「黒南風」、梅雨が終わる時の風を「白南風」。「はえ」は南風。漁師ことばです。沖縄に行くと、南風のことを、「ぱえのかじ」。沖縄と共通していることばというのは、すごく古いことばだということがわかります。本土方言と琉球方言は日本の二大方言。琉球方言に残っているというのは、古い。白と黒の対比が梅雨にあるということを、どこかで印象にあると、「梅雨長し」に「ペンキ白々」というのは、なるほど、そんな気分があるなあと。理屈ではなく、気分。
とりあへずサラダボウルに金魚入れ
これ、いい句ですね。そのままお作りになったんでしょうけれど、この句の面白さは、状況がよくわかりますね。自分で金魚を買おうと思って、出掛けていったら、こんなことにはならない。当然、金魚鉢も一緒に買うとか。偶然、誰か訪ねてきた人とか、家族の子供が、金魚買っちゃった。と言って、やってきて、そんな狭いビニール袋に入れていたら、かわいそうだから、ともかくこっちに入れてあげなさい。と言って、台所からサラダボウルを持ってきて、金魚を入れた。さ、鉢は後から考えよう。ということで、誰か思わず持って来た人 がいて、それに対応しているというのが、よくわかる。そこまで作者は言うつもりはなかったかもしれないけれど、これは先ほど、冒頭に言った、メッセージ性はないんだけれども、突然に金魚を持ってきた人がいるということが、わかりますね。面白いと思いますね。
涼しさや鶯張りを磨きあげ
鶯張りはあちこちにありますね。二条城は有名かもしれないけれど。たしか日光の東照宮にもありましたね。あるいは禅寺、大徳寺などにもありますね。もともとはお武家さんとか高貴な人に刺客が来ないように、鶯張りにしたというんだけれど、お武家さんの刃傷沙汰の時代の建物を、何百年も磨きあげている。今はそんなことのない平和な時代なんだけれども、相変わらず磨きあげてあるという、時代の流れがよく見えてきて、面白いと思いました。
頬を寄せ合うて二つの実梅かな
頬を寄せ合っているような実梅が二つあったということなんだけれど、「頬を寄せ合うて実梅の二つかな」とした方が、まわりが見えていないで、そこだけ二つぱっと見える。「二つの実梅かな」とすると、説明くささが出てしまう。じゃ、三つなら、四つならどうするんだとなってしまう。「実梅」ってむずかしい季題で、「実梅」と「青梅」と同じように歳時記で、説明してしまったんだけれど、あれは書き換えないといけないと、最近は思っています。「実梅」はやや黄熟しかけた梅を、実梅とすべきだと、今年気がつきました。だから、この句もそういうふうに、解釈させてもらいたいと思います。
川風を足裏に受けて床涼み
いい句ですね。ストッキングを脱いでしまったのか、普段足の裏に風を当てないけれど、なるほど貴船辺りの川床に行って、ぶらっと足を垂らすと、足裏に風がきます。そんなくつろいだ感じがよく出ていると思いましたね。