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花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第34回 (平成17年7月8日 席題 川床・金魚)

明日咲かむ桔梗の蕾ふくらみて
これもいいですね。「明日咲くだろうよ。」「咲かむ」で、終止形で切れるんではなくて、この「む」は連体形の「む」で、明日咲くであろうところの桔梗、それが一本一本ふくらんでいる。というので、採れなかった方の多くは、「咲かむ」で切ってしまって、ばさばさしていると感じられたのでしょう。
二日酔ひ金魚眺めて暮れにけり
その通りですね。年をとると、二日酔いが遅くなりますね。段々年をとると、飲んでる時はなんでもない。朝は普通に授業をやって、お昼食べたりとか、最近になると、夕方に急にかーっとしてくる。そのことを感ずると、この句がよくわかる。ただ二日酔ひは「宿酔」とお書きになる方がいいかもしれません。
滴りに馬くさき手を洗ひをり
面白いですね。岩場をたらたらたらたら垂れている、滴りがあった。さっき、牧場を通った時に、放牧してある馬をさわって、その牧場を出て、山道にさしかかった。そうしたら、ずっと谷が迫ってきた所に滴りがあった。「あ、滴りだ。」といって、手をつけたんだけれど、「あ、さっき馬を触った、その匂いがあるな。」というので、ちょっともどかしい思いをしながら、少し時間をかけて、どーっと湧いてるところなら、すぐ洗えますけれど、滴りですから、たらたらたらたら時間をかけている。馬を触った所と滴りの場所とが、距離があるというのが、この句の面白さで、馬のいるような所には、滴りはなかなか無い。その辺のロケーションを楽しむと、読者は楽しいですね。
安曇野の狐嫁入月見草
ちょっと「狐嫁入」という言い方が、舌っ足らずのところが、残念なんですけれども。安曇野のああいう地形で、狐の嫁入、日照雨ですね。日照雨がぱーっとあって、月見草がそれに当たっているという、安曇野の地形は確かに日照雨には、ある風趣を添えるなと思いました。
行列の後につきて泉汲む
これ、うまい句ですね。今流行りの健康ブームとかハケの水ブームで、泉の所に皆ポリバケツを持って、「お茶にはこれがいいんだ。」とか、「コーヒーをいれます。」とか、いろいろ。都市の上水道が臭すぎるかもしれませんが…。そういうような郊外の泉へ、人々が車に乗って、ポリバケツやペットボトルを持ってきてる。それを黙ってじっと待っている。現代風景をよく捉えていると思いますね。これが,さっき言った点でいいんです。何のメッセージも言っていないけれども、僕がぱかぱかぱかぱか喋ってしまうっていうのは、余韻がある。余韻に託して、句の中には入れないというのは、俳句の一つの大事なやり方ですね。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第18回 (平成17年4月8日 席題 花一切・虚子忌)

文鳥の餌の分だけはこべ摘む
どなたかが「やさしい」と言ってらっしゃいましたが、本当にそうだと思いますね。文鳥の食べる餌なんて、しれていると思いますが、それでも散歩しながらも文鳥を、あるいは犬を猫を、あるいは家族を思う、やさしき人物像が目に浮かぶと思います。「鶏にやる田芹摘みにと来し我ぞ」という高浜虚子の句がありますが、それとも趣きが若干違います。こっちの方が柔らかい感じがするかもしれませんね。あれはちょっと寒い春先の感じの句だと思います。
見えたることなけれども虚子忌かな
いまや見えたる人はほとんどいなくなってしまって、『見えたる人』に見えている時代ですから。もうしばらく経つと「見えたる人」にも見えなくなって、そこで初めて虚子の真価が出るんでしょうね。文学史上になった時に、初めて虚子の価値が残るんだろうと思います。
花衣軽ろく泉をひと巡り
「花衣」は花見の時に着る衣です。何を着たって花衣です。大袈裟に言えば、綿入れを着ていたって、花衣。袷というのは、実は俳句では夏の季題なんですね。今、袷は冬のうちから着ていて、夏になると一重になってしまうんですけれど、昔の人の方が寒かったんでしょうね。綿入れを着ているほうが、普通だったんです。この場合は袷なんでしょうかね。軽々とした着こなしと軽々とした生地、それを着た女の人が、ちょっと泉の回りをぐるっと歩いたというのを見ていたのだろうと思います。あるいは一人称と取ってもいいと思います。
ふうわりと飛行船浮く春の空
いかにも春空ですね。「ふんわりと」でなく「ふうわりと」と言ったところに、ある実感があると思います。あまり近くない、遠くの方なんでしょうね。近くだと、ごーっと音がしたりして、あまり可愛くない。遠くだと可愛いですね。
木蓮が香りて散りて人思ふ
いい句だと思いますね。この句は紫木蓮なのかなと思いますが、外側が紫で、内側がけっこう淡いアイボリー。それが咲き始めると、香ってまいります。それが日がたつと、傷んで来て、花弁が折れて、くずれて、散り始めます。けっこうタイムスパンがあるんですね。その間、あの人、どうしているのかな。気になるな。手紙出してみようかな。」と思っているうちに数日が経った。ふっとあの人のことを思った時に、香っていた木蓮がいまやすっかり散ってしまって、「そうだ。まだあの人に連絡も取っていないんだわ。」といったような、感覚的な心の奥のある写生になっていて、いい句だと思います。久しぶりの方がなかなか。特訓でもしていたのではと思います(笑)。前にも言ったことがありますが、俳句は作っていなくても、うまくなります。作っていてもうまくなります。何故かというと、その間に季題とたくさん接しているから。人間は季題と接していれば、作っていなくとも、かならず俳句はうまくなりますから、少々休んでも、自信を持って、お作りいただきたいと思います。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第1回 (平成16年12月10日 席題 鰤・紙漉)

淋しきはビルの谷間の枯木立

勿論、季題は枯木立なんですが、枯木立というと、今流行りのことばで言うと里山とか、そういう所の木々。それがすっかり枯れて、十幹とか二十幹とか並んでいるという感じがするんですけれども、そういう自然の何百年も生え替わり、生まれ変わってきた木立と違って、ビルの谷間の枯木立というと、いかにも植えましたという感じ。小難しいことを言えば、きっと土地の建ぺい率があるんでしょう。高いビルを立てれば、必ずビルでない部分に公共の部分を作らないといけない。そうするといかにも植えましたといった木がある。そういういかにも人工の、持って来て植えましたというようなしらじらしさみたいなものが、この句にはありますね。「淋しきは」という打ち出し方は、ひじょうに主観的で、今まで採らなかった傾向とお思いかと思いますが、この句の場合には枯木立がいかにもその場にそぐわぬ、その冷涼たる気分は「淋しきは」と打ち出さないと言い切れないだろうと思います。

 

なじまない猫と住み居て漱石忌

勿論、賛同者が多かったので、よくおわかりと思いますが、「猫」と言えば、漱石忌ということになる。その猫がいつまでたっても主人に馴染まない。他の家族にはなつきながら、どうも俺にはなつかないぞ。可愛いと思いながら、どこか十全に満足しない。そんな主人公の漱石忌を迎えての気持ちがよく出ているなと思いました。

 

村のバス朝夕二本紙を漉く

席題の句の優等生の方向の句ですね。この句が今までなかったかというと、なくはないと思うんですが、席題を与えられた時に、自分の想をこういう方向で広げていくということは、一つだと思うんです。つまり、紙を漉くというのは、どういう所か。離れた所なんだよな。人があまり来ないような里なんだよな。とか、そうするとバスが二本しか来ないとか、段々想が発展してきますね。そうすると空想でなくて、長い人生の中でそういう所はこうだよということが出てくるわけですね。その世界へ自分を旅させていく。題詠の面白さは、自分の過去のさまざまの見た事や、聞いたことや、テレビの映像で見た世界に、ふーっと入り込んでいって、そこで見聞をしてくる。そういう時に「村のバス(後略)」の方向で、どうぞ想を練っていって下さい。そういう顕彰の意味で、採りました。

 

小春日の煙にむせて泉岳寺

元の句、「小春日や」。「や」で切ってしまうと、この句の狙いがはずれてしまうかもしれませんね。さっきも言ったんですが、そろそろ十二月十四日だ。という気持ちで、今日はいい天気だ。あの時の、ま、あの時の十二月は西暦の二月頃になるんですが、雪の降った日なんですが、そんな雪の泉岳寺の朝を想の片隅に置きながら、今日の小春日和をめでている。なるほど、泉岳寺というのは、日本の寺の中でも、煙の多いお寺ですね。