梅の花」タグアーカイブ

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第12回 (平成17年3月11日 席題 御水取(お松明)・アスパラガス)

指ほどのアスパラガスの青さかな
これはうまい句で、アスパラがちょうどぽっと出た瞬間を詠み取った句だと思うんですが、元の句の「拇指」と書いて、「ゆび」という、実際には出た瞬間はもっと細い。だから普通の字使いの「指」となさった方がよいと思いますね。アスパラは多年草だから、十年くらい植え替えないで、何度も収穫できるんですね。
お水取練行僧のひた走り
NHK特集という感じでいいですね。やはり俳句は題詠と嘱目と両輪です。どっちもやらないと駄目です。こういう句と出会うと、題詠を出しておいてよかったなと思います。この句が上等かというと、それほど上等でもない。作り方は正しいんですね。芭蕉さんも似たような句を作っている。「韃靼僧の沓の音」というのが…。 二月堂は丘の方にある。二月堂の内陣に十一面観音が祀ってある。その奥で、十一人の練行衆が荒行をする。その間に木を打ち付けた、すごい音のする草履みたいなもので、かけずり回ったりする。この十一面観音を祀って、国土安泰、国家護持を祈る。それと同時に、お水取ということばの由来は、お水、閼伽水を汲むんですね。その下にある、若狭井から汲む。この若狭の井戸というのでわかるように、若狭の国から水を送って、地下水道を通って、二月堂に水が出る。若狭小浜の神宮寺の境内に湧く水を遠敷川(おにゅうがわ)の鵜の瀬から若狭井に流す。若狭湾に常世の国から寄せてきた常世波が地下水道を通って、若狭井へ出てくる。というお約束。新年のお水(若水)と同じ。水を十一面観音様に捧げるという行事なんですね。神道と仏教がめちゃめちゃに入り組んで、どこか日本の古い常世の国からのメッセージが、この国を守るという奥底の行事がお水取の行事です。お水取は夜中の二時か三時で誰も見ていない。お水取というのは、行事としては火の行事で、火の粉ばっかり目立つんですが…。そういうことを、題詠で作っておいて、いつか見にいらっしゃると、嘱目でできます。嘱目で見た句と、題詠で作った自分と、相乗効果で写生が進むとすばらしいと思います。そういう意味で、この句は採るに足りる句だったと思います。
ビルの脇を朝日上り来梅の花
あまり人気がなかったけれど、僕はこの句好きですね。都会の春先という感じがしますね。高いビルがあって、その脇に日が上っていて、ちょうどそのビルに沿った形で上ろうとしている。そのビルの谷間のちょっと広くなった所に、いかにもとって付けたように、梅の木が植えてあって、けなげに梅の花が咲いてをった。東京の街はビルが高くなればなるほど、ビルの裾野に空き地が多くなって、わざとらしい公園になって、木が植えてありますね。僕はそんな所にある梅の花を想像しました。鑑賞としては、そんなものが感ぜられて、それでも、東京にはちゃんと春が来たという句だろうと思います。
お水取の火の粉に人の波揺るる
これもテレビなどでご覧になって作った句で、けっこうなんですけれど、元の句「お水取火の粉に(後略)」では、ぱちっぱちっと出来ていて、嘘っぽくなってしまう。「お水取」と言うと、お水取を置いておいて、もう一度「火の粉」が出てくる。「お水取の火の粉」というと、棹の先に火の粉がバーっと散っている、そこまで一気に見えてくる。字余りというのは、こうやって効果的に使うのを覚えておおきになるとよかろうと思いますね。
谷底に湯治場のあり山笑ふ
いかにもありそうで、気持ちのいい句ですね。俳句は人の詠まない新しいところを作ってやろうとするより大事なのは、いかにも共感できる気持ちのいい句。湯治場の山だけ見えている。山だけぽこっと見えていて、「あの山だね。行ったことある。」などと話をしながら、見下ろしている人がいる。