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花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第29回 (平成17年6月10日 席題 苺・虎が雨)

一呼吸又一呼吸蛍の火
重ね方がひじょうにうまいと思いましたね。弱い光で呼ぶように点滅するのは、雌蛍なんですね。それに対して、飛んで行く蛍は全部雄蛍。大体、夕方七時と、夜十一時と、朝方の三時頃、大体一晩に三回くらい、そういう場面、お見合いみたいな場面が見えてくると思います。
菖蒲田の狭まるは谷戸狭まりぬ
ちょっと変え過ぎたかもしれません。元の句では、意味がもたもたしてしまって、わからない。元の句、「菖蒲田の狭まり谷戸の迫りけり」。「谷戸の迫る」という言い方はしないんですね。谷戸というのは、低い所ですから。谷戸の両方の丘が迫ってくる。谷戸はどこまでも狭まる。だから菖蒲田が狭まったなと思った。ああ、それは菖蒲田が狭まったのでなくて、まわりの山がそこで狭まっているんだ。という一つの発見だと思いますね。
花葵小さきなりに屹立す
これ、面白いですね。小さい葵が真っ直ぐ立っている。それを屹立という若干強いことばで言ってもいい。屹立、そばだって見える。ということですね。
チョコレート色の小さき梅雨茸
うまいですね。秋の茸だと、食べられる茸、食べられない茸。さまざまあるけれども、梅雨茸というのは最初から食べない。食べる気もない。その中に、すごい色をしている。チョコレート色だわ。食欲もわかないような、それでも梅雨茸は梅雨茸で、自分の存在をきちっと形にしているということだろうと思いますね。
行儀よく頭並べてさくらんぼ
今日の苺でもそうなんですが、摘んでいるところ、あるいは農家で作業中の苺、さくらんぼ。店頭に売り出している時の苺、あるいはさくらんぼ。あるいは食卓で出た時。それぞれ皆風情が違います。この句は、巧みに言えていると思いますね。これは、箱にしっかり詰まって売られているさくらんぼ。食べる時には、それはばらされてしまうし、栽培農家ではこういう形は絶対見えない。あ、売られているなということがわかって、町の中でのさくらんぼということが よくわかると思います。
滝壺は群青にして硫黄の香
どういう所かわかりません。水質が若干、火山性の混ざり物があって、とくに青さが強烈であった。そうそう、そういえばここまで火口の硫黄の匂いがしてくるわ。ということで、『滝』という夏の季題が、大きく詠まれているな。「群青世界」という句も、昔、秋桜子にありましたが、あれとは違う。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第27回 (平成17年6月10日 席題 苺・虎が雨)

ひと巡りしたれば閉ぢて未草
之は巧みな句で、俳句のことがよくわかってますね。どっか公園みたいな所で池があって、睡蓮が咲いてたんですね。バラ園があるからって、ぐるっと回ってきた。また入口の池の睡蓮の所に来たら、もう閉じていた。さっき咲いていたわね。もう閉じちゃった。ご承知と思いますが、未草は、未の刻に閉じるので、未草。大体午後二時頃。朝、咲いて、夕方になると閉じるから、未草という別名を持っている。それにちょっと凭れかかり過ぎている危険もなくはないけれど、実景があるから、いいでしょうね。
木下闇抜けて対峙す桜島
まあ磯庭園か何か、そういった所の木立をずっと歩いてきて、木立が繁っていますから、その時には見えないんだけれども、その木下闇を抜けて、汀に来たらば、桜島が向こうにどんとあった。ちょうど自分と桜島が一対一で、対峙しているようだった。
話とてなき老夫婦虎ヶ雨
虎が雨の一つの風情かもしれませんね。虎が雨だなと思いながらも、そのことを夫に告げるでもない。夫も兄弟のことを思いながらも、今更に妻に話もしない。でもお互いに虎が雨だということはわかっているという句だと思います。ただ、この句の場合、語順に研究の余地があるかもしれません。「虎が雨話とてなく老夫婦」。その方が落ち着きがいいかもしれませんね。
虎が雨静かに碓と降りにける
うまい句ですね。虎御前というのは、大変しっかりとした人で、十郎の愛人だったようですが、『碓と』というところに、女の人の強さ、あるいは兄弟を支えた様々の功績、そんなことを考えると、女の涙が静かに碓としているということは、いかにも虎御前という人の大きさが出ていて、うまい句だなと思って、感心しました。
たまゆらの跡を残して蛍飛ぶ
一種の残像現象なんでしょうね。蛍がふーっと飛んでいったのを見たら、その光跡のようなものが、瞬間ちょっと見えた。それを「たまゆらの跡を残して」ときれいに叙したところが、句の格ですね。それがいいと思いました。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第21回 (平成17年5月13日 席題 蛞蝓・橡の花)

伐採の青葉の香り道包む
季題は「青葉」ですね。伐採は間伐でもいいんですが、何かのことで、青葉の茂っているのを伐ることになった。チェーンソーの音がして、道の辺りに、葉がついたまま枝が盛り上がっている。そんな所を歩いたところが、その香りが道全体を包むようにあった。ということです。元の句、「伐採の青葉香りて道包む」。これだと、青葉が道を包むことになる。香りが道を包むんでしょうね。そうすると、掲句のように「伐採の青葉の香り道包む」としないと、句としては成り立たないですね。
麓なるつつじの色へ下りけり
つつじの色というのは、何も一色ではなくて、いろいろの色があるんだけれども、目が痛くなるような赤い色ってのがあるんです。外の花にはなかなか無い色なんですけれど、つつじの最も特徴的な色でしょう。小高い丘から下のつつじの方へずっと降りてきた。それはつつじへ降りるというより、つつじの色に降りていくような感じがしたということで、霧島とかの高原の感じでもいいし、 どこか植え込んだ六義園とかの築山を見るのも構わない。あるいは小石川の植物園の上から下へ降りてくるのも、こんな感じがしますね。そんな心楽しい句だと思います。
平均台のやうに茎来し天道虫
元の句、「平均台のやうに草来し天道虫」。『葉』だと平均台という感じがしない。茎だと、なるほど天道虫の腹より茎の方が狭いことがありそうで、平均台という比喩が生きるでしょうね。
牡丹描いて牡丹見ている昼下り
ちょっと感じがある句ですね。牡丹が咲いたので、牡丹を描いてみましょうというので、描き始めた。しばらくして描き上がってもいいし、途中で描くのを止めて、他のことを考え始めてしまって、手は止まったままで、牡丹を見ていた。描き上がったわけではないが、描く気持ちではなくなって、ほかのことを考えながら、牡丹を見てしまったという方が、句としては、深いかもしれませんね。元の句、「牡丹描き牡丹見ている」。これだと、説明っぽくなってしまいますね。「牡丹描いて」と字余りになさった方が、この句はかえって生きるかもしれません。
湯気もまた緑色なす新茶かな
ちょっと出来過ぎている。湯気が本当に緑色かというと、そんなことはないんで、湯気の下にあるお茶の緑が映えて、湯気もそんな感じに見えたというんでしょうけれども、それを強引に「緑に見えます。」と言った潔さもいいのかもしれません。でも若干危険分子を含んでをりますね。
葉桜のたはむるるごとそよぎをり
元の句、「たわむれるごと」。「たはむるるごと」でしょうね。「たわむれる」は口語ですね。「たはむるる」は文語。なるほど花の咲いている時に、揺れていると、『戯れる』という感じより、「まあ、散っちゃったら、どうしよう。」なんて言う方に、人間の気持ちが行ってしまう。葉桜だと、よほど風に吹かれても、現金なもので、安心して見ていて、まるで『戯れているようだな。』葉裏と葉表に、若干の色の違いが、それほどけざやかではないんだけれども、出てきて、面白いですね。葛の葉みたいに表と裏の色が全く違うというと、もっともっと違う印象になりますが、でもこの葉桜の気分がよく出ていると思います。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第20回 (平成17年4月8日 席題 花一切・虚子忌)

五月晴よく続きたりクラス会
この句の季題は『五月晴』で、鑑賞するときは、今から二月後くらいの気候を鑑賞します。「五月晴」はさつきの晴れ間。さつきというのは、さみだれの月。「さ」は神様のこと。「さつき」は神様の来る月。『早苗』は神様が祝福した苗。「早乙女」は神様に仕える乙女。「さのぼり」は神様が山に上って帰ること。ですから「五月晴」は梅雨の頃の晴れ間。そうやってみると、この句、梅雨の頃にクラス会が設定されていた。たまたまいい日があった。クラス会、明後日だわ。続かないでしょう。と思ったら、三日間続いた。今日のクラス会、とうとう降らなかった。何十年ぶりに会う、そう若くはないご婦人のクラス会という感じがします。着ていくものは、「これでは派手かしら?」などと、いろいろ楽しめて、いい句だと思います。
防風林海に傾く鰆東風
魚偏に春と書いて、「さわら」と言いますが、かますとかバラクーダに近い、割合に獰猛な魚なんですが、斑の入り様が、なだれ模様がいかにも鰆、春の感じですが、そんなに浅いところで獲れる魚ではないんです。そんな大きな海の景色の一角に、防風林が、まあ、防砂林みたいなんでしょうね。なだれているんですから、平らではなくて、急に海に落ち込む防風林で、急に傾いている。そこに強い風が吹いてくる。こんな日は沖から鰆が吹き寄せられてくるんだよなんて、漁師さんが言っているとそんなところだろうと思います。
新しき色おびただし落椿
落椿はほっておくと、どんどん腐ってきて、錆びた色になって、けっこう見苦しい感じがします。ところが、小石川の後楽園とか手入れのいい庭園ですと、まわりに落椿は一つもないです。それでも、一日のうちでも、夕方に来ると、おびただしく落椿が累々とある。そんな特殊な手入れのいい庭園でも、累々とした落椿という感じを私は思いました。
昃りて桜紫めけるかな
元の句、「翳りて」。この字はやっぱり、「かげりて」と読むんだと思いますね。昃は「ひかげる」という字ですね。「昃れば春水のこころ後もどり」(字遣い未確認)という立子先生の句もこの字です。日が翳ってみたら、さっきまでぱんと桜色だった桜が、急にしゅーんと紫色に哀色を帯びた。その瞬間を捉えた句で、なかなか句に馴れた人の句だなあと思って、楽しく拝見した次第です。

採らぬ親切を発揮してしまった人もいましたが、桜の真っ最中で、いい写生句もたくさんあったと思います。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第19回 (平成17年4月8日 席題 花一切・虚子忌)

星空を覆ひつくして桜咲く
実景というよりも、理想的な一つの形を頭の中で描いて、ひじょうによろしき日本画を見るような、気持ち良さがありますね。つまりリアリズムだけではなくて、本来なら星空が向こうにあるはずなんだけれども、今見えていない。でもあるんだぞ。と見えない星空が心の中には見えていて、そして眼前には、桜がこちらを見下ろしている。という上品な、若干理想的な角度を描いた句だろうと思います。
一人守る風の寒さや花筵
これはリアリズムですね。いわゆる場所取りの若い新入社員が「寒—い。」とか言って、「皆こないな。」なんて言っている感じが出ています。「寒さや」でもいいですし、「風の冷たや」なんていうのも言い方かもしれませんね。『寒さ』はちょっと強いかもしれませんね。季題は「花筵」だから勿論いいんだけど、「冷たや」というと、人間関係もそこにちらと出てきて、「一人守る風の冷たや花筵」なんていう方が、句としては、肌理が細かくなるかもしれませんね。それは、それぞれのご判断で結構なんです。
親鸞の寺の小庭の初桜
それ以上のことは私は知りませんが、常州にいらしたということなんで、後でうかがおうと思います。とにかく、親鸞ゆかりの小さな寺があった。「え、ここなんだ。」そこへたまさか行ってみたらば、初桜が咲いてをった。親鸞はひじょうに人間的というんですかね。、高僧と言えば、高僧。普通の人と言えば、普通の人。その親鸞という人を思うと初桜も親しみが感ぜられます。お坊さまというのは、高等なことばかり考えているかと思うと、存外、ふっと人間的なものがある。そこにまた、僕ら、惹かれるんですね。
甘茶などふるまふ句会虚子忌かな
これもちょうど仏生に因んで、そんな甘茶も振る舞われて、という、飲むんですかね。普通、仏様にかけてしまうんですけど、「これ、甘茶ですよー。」と言って、出てくるのかもしれません。いかにも虚子忌らしい感じがしました。