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花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第94回 (平成18年7月14日 席題 ブーゲンビレア・西日)

砂日傘どれも死海の青に向き
元の句、「砂日傘人みな死海の青に向き」。砂日傘が向いているというので、俳句なんですね。それを人が向いているというと、説明っぽくなってしまう。俳句はできるだけ、そういう時に『人』だの何だの言わない方が得だろうと思いますので、掲句のようになさるのがよろしかろうと思います。
ビルとぎれ西日一閃バスの窓
これは人気があった句で、こういう一句を皆採れるというのは、それだけ選句力が身に付いてきたので、慶賀すべきことだと思います。これは先程の「西の壁西日を受けし」の句と同じように、近年の東京の光景ですね。いつまでもビルの陰を走っているとまったく西日など当たらないような、ところが広い駐車場とか、高いビルを建てると逆に周りにはものを建ててはいけないお約束がある。そうすると高いビルだと、かえって何もない広がりが現出するんですね。そういうことまでよく見えてきて、すぱっと西日が車内を差した。しかもバスの窓が昔と違って、大きな窓がたくさん広くあるというのもわかって、こういう句を作れたら、気持ちがいいだろうなと思いますね。
美しき果物のあり昼寝覚め
いい暮しですね。「昼寝覚め」という夏の季題なんですけれども、うつつに戻るまでのちょっとした時間がある。うつつに戻ったら、「あ、これをすぐやんなきゃ。」と思うんだけれど、うつつに戻るまでは、ちょっとぼーっと「まあー、きれいなもんだわ。」と思う。そういうところの微妙な夢からうつつに移る時間のちょっとした間(あわい)がこの句には見えていて、面白いと思いましたね。
夏山のさらに大きくそこにゐて
さあ、この句ですね。平板に作れば、「夏山のさらに大きくそこにあり」なんですね。しかし作者はどうしても「あり」では自分の気持ちが詠めなかったんでしょうね。「ゐて」と言う位までに、その夏山に対する感情が昂っていたんでしょう。どういうことかと言えば、汽車に乗っている頃から、その夏山はあった。汽車を降りて、バスに乗り換えている間に段々近づいてきた。そして今日泊まる所に来て、窓を開けたら、あの汽車から見た、あるいは途中のバスから見たその尾根が、あの形で、でもさっきまで見て来たよりもさらに大きな、その山らしい山頂の形、裾野を引く形が、さらに大きく眼前にあった。そこに「ある」では言えない、「ゐて」と言うくらい親近感を持つ山であった。さらに大きくなってそこにあったということで、浅間とか富士、あるいは磐梯山とか、特徴のある山だと、大変面白いと思いました。作者の気持ちの強さに気圧されて、「ゐて」でいいんだなと採ってしまった。選者の掌の中だけで句が選べたら、選者と作者の関係ってつまらない関係ですね。選者が一歩引いて、この句を採らざるを得ない。と思って採るというのが、作者と選者の関係があらまほしきことで、自分のありようの句しか採れないようになったら、選者はおしまい。自分の作らない句,自分では是としていいかどうかわからないけれど、一歩引いてみたらいい句だというのは採るように、近年、心掛けております。
シャーベットさじでけずるや物想ひ
こういう微妙な陰影の句をどなたがお作りになるのかと思ったら、この作者なので、大層びっくりしたというか、ある意味ではむべなるかなと思うんです。 「シャーベットけずる」っていうところで、食べる気はない。手持ち無沙汰ではあるんですね。だから手は自然に動くんだけれど、それは食べると言うより削って、ちょっとずつかいているだけだ。頭の中では、ここのところ次から次へ思っている物想いして、微妙な句だと思いますね。この作者というと、そんな若くないんだけれども、できたら妙齢の御婦人にやっていただきたいという気もいたしました。もしかすると作者の前に妙齢のご婦人がいて、シャーベットを削っているのかもしれません。