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花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第19回 (平成17年4月8日 席題 花一切・虚子忌)

星空を覆ひつくして桜咲く
実景というよりも、理想的な一つの形を頭の中で描いて、ひじょうによろしき日本画を見るような、気持ち良さがありますね。つまりリアリズムだけではなくて、本来なら星空が向こうにあるはずなんだけれども、今見えていない。でもあるんだぞ。と見えない星空が心の中には見えていて、そして眼前には、桜がこちらを見下ろしている。という上品な、若干理想的な角度を描いた句だろうと思います。
一人守る風の寒さや花筵
これはリアリズムですね。いわゆる場所取りの若い新入社員が「寒—い。」とか言って、「皆こないな。」なんて言っている感じが出ています。「寒さや」でもいいですし、「風の冷たや」なんていうのも言い方かもしれませんね。『寒さ』はちょっと強いかもしれませんね。季題は「花筵」だから勿論いいんだけど、「冷たや」というと、人間関係もそこにちらと出てきて、「一人守る風の冷たや花筵」なんていう方が、句としては、肌理が細かくなるかもしれませんね。それは、それぞれのご判断で結構なんです。
親鸞の寺の小庭の初桜
それ以上のことは私は知りませんが、常州にいらしたということなんで、後でうかがおうと思います。とにかく、親鸞ゆかりの小さな寺があった。「え、ここなんだ。」そこへたまさか行ってみたらば、初桜が咲いてをった。親鸞はひじょうに人間的というんですかね。、高僧と言えば、高僧。普通の人と言えば、普通の人。その親鸞という人を思うと初桜も親しみが感ぜられます。お坊さまというのは、高等なことばかり考えているかと思うと、存外、ふっと人間的なものがある。そこにまた、僕ら、惹かれるんですね。
甘茶などふるまふ句会虚子忌かな
これもちょうど仏生に因んで、そんな甘茶も振る舞われて、という、飲むんですかね。普通、仏様にかけてしまうんですけど、「これ、甘茶ですよー。」と言って、出てくるのかもしれません。いかにも虚子忌らしい感じがしました。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第11回 (平成17年3月11日 席題 御水取(お松明)・アスパラガス)

蕗のとう包みてくるる指の荒れ

いわゆる生産者市場でも構わないし、もっと農家そのものでもいいんだけれど、「蕗の薹、持って帰んなよ。」と言って、新聞紙にざくざくっと、二、三十個包んでくれた。その音が、がさがさといいながら包んでいる包み方を見ていると、その指が全部荒れて、からからに乾いて罅が入って、土が細かいところまで染まっているような、そんな太い指だった。という句ですが、「指の荒れ」というところがむずかしいですね。そういうと、「指の荒れ」が包んでくれるようになってしまう。「蕗の薹を包んでくれる指」で切って、その指が荒れていると言わなければいけないんだけれど、表現として飛躍というよりは、ふつつかですね。何とかしたいところなんだけれど、短時間にこう言ったらという提案を、うまく練りきれませんでした。

 トランプの恋占ひや春の風邪

 いかにも春の風邪らしい。熱があるわけでもないけれど、ぐずぐずとしてをる。思春期の少女でしょうね。今日は風邪だからと言って、ガウンをまといながら、ベッドに入らずにいる。それがトランプの恋占いかなにかをしている。と言った風情で、まことに「春の風邪」という季題趣味に寄り添った句だと思います。ただし、こういった句がこれまでに無かったかと言えば、世の中にあったかもしれません。ただ毎回言っているように、あったからと言って、正しい作り方をしていれば、採るというのが私のやり方です。

 

あお向けに寝て鼻先に寒さあり

さあ、この句は大変人気があった句でいいんですけれども、「余寒」というのは、寒があけて春になったのに、そぞろ背中が寒くなるような不愉快な寒さを余寒。(元の句、「余寒あり」)この句の場合には、「おお、寒い寒い。」といって、寝た後、この場合、ベッドでなくて、畳なんですね。それも、家族が温めておいた部屋でなくて、一人で帰ってきて、あるいは自分の家でなくてもいいんですが、ふとんが敷いてあって、とにかく寝てしまおうと寝たところが、空気が冷えていて、鼻先あたりがその空気の高さがまだ寒い。「余寒」というと、「一旦暖かくなったのに、またね。」ということ。この句の中心は、鼻先が寒い。低いですからね。畳の高さは。「余寒」というと、この句の焦点がぼけてしまう。だから、実際は余寒だったろうけれど、句としては、掲句のようにするといいと思いますね。ちなみに、最近のある大結社の流行は、「鼻先にある寒さ」と下五に動詞の連体形に名詞がつくというのをやっていますね。病気のように。

歯ごたへを残し茹であげ松葉独活

元の句、「茹で上ぐ」。これだと、終止形になって、いっぺんこれで切れる。「茹であぐ」というと、「松葉独活とはそんなものであるよ。」「茹であげ」というと、ポーズはあるんだけれども、意味が違う。「はい、こうして茹であげましたところの」という、連用形のよさですね。連用中止法というんですが、一旦軽く止める。この場合には、「茹であげ」と言った方が、いかにも湯気がほわほわっと、この場合、グリーンアスパラだと思うんですが、アスパラの感じが見えてくると思います。くたくたっとならない…。

日々かくも寒きまゝ梅咲き残り

この作者の一つの境地に、一つステップアップなさったと思いますね。もともと、いろいろ内蔵していらっしゃる方なんだけれど、こういう句作りをできるようになったということは、ここで大きく段を上ったなという気がして、嬉しく思いました。この句は厳密に言えば、季重ねです。「寒さ」という季題と「梅咲き残る」という季題。勿論、この句は「梅咲き残る」という「梅」が季題なんですけれども。「寒い日が毎日、毎日だけども。ああ、梅が残ってるな。」それだけれども、理屈になっていない。この句と出会えて、今日は嬉しゅうございました。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第7回 (平成17年2月18日 席題 梅・余寒)

ろうそくを立ててかまくら完成す

たしか去年の今頃、「かまくら」という席題で、皆さん作って、僕もかまくらの句で遊ばせていただいた記憶があるんですが、この句はこの句でよく出来てますね。しかも昔ながらに子供が作ったかまくらではなくって、観光協会とか、そんな町の大人が、いくつもいくつも作って、「さあ、これで出来上がりだ。」というところに、子供がやってきて、水神様を祀る。そんな感じがあって、大人の作った感じが、「かまくら完成す」というリズムですね。「ろうそくを立ててかまくらできあがる」とか「できあがり」というと、子供が作ったような感じがありますが、「完成す」と言われると、町の青年団かなにかが、子供に代わって作っているような、そんな感じがあって、面白いと思いました。

風止んで梅見日和と云ふべかり

これは実に俳句の骨法を心得た作り方。風がひゅーひゅー吹いているうちは、梅はきれいであるんだけれど、心が落ち着かなかった。昼頃から、風が止んでみたらば、マフラーが邪魔なくらいの感じがしてきた。「ああ、これが本当の梅見日和かしらね。梅にあっている。」ちょっと手前勝手な句ですけれどね。本当は寒いのが、梅見日和で、ほの暖かくなったら、花見日和みたいになるんですけれど、そこは人間の心理で、面白いと思いましたね。午前中の風のある時から、昼頃、ぱたっと風が止んだ、そのタイムスパンが見えてくる、そこが面白いと思いました。

梅見頃臨時改札山の駅

ようく目の届いた句でいいですね。梅の頃になって、ある山の駅に臨時改札ができる。普段の改札口は、集落の方に一つあるきり。上りで降りようが、下りで降りようが、一本のホームをずっと片方の方へ行って、そこから出る。梅林は丘がかった所にあって、梅林へ行くお客にとって、一旦、集落の方へ行って改札を通って、また道の方へ行くなんていやなこったというような人がたくさんいるんで、反対側の山の口あたりに臨時改札口を作って、電車が着く度に、駅員が出向いて、臨時改札をしておる。といったような、一年の間にせいぜい二週間位しかやらないんだけれど、村にとっても、その人にとっても年中行事みたいになっている。というようなことが、すべて見えてきて、いいですね。この句のよろしさは、ああだこうだと説明していない。見えたものだけを、材料をとんとんと列べて、今僕が解釈したような内容をきちんと伝えているという点で、上等な句だと思いました。

賛美歌も花も余寒の葬儀(はふり)かな

ちょうど寒が終わった頃というのは、病の人は一番亡くなりやすい。二月、八月が亡くなりやすい。寒があけたんだけれど、あいかわらず寒さが続いて、献花などを待っている人の裾のあたりがすーすーと寒いという感じかもしれません。

春は曙ガレのランプの琥珀色

この句は字余りをうまく使った句ですね。「春は曙」とわざと字余りにしておいて、勿論、枕の草子の世界を背景に置きながら、まったりとした、落ち着いた時間の中で、ガレの不思議なアールヌーボーの琥珀色の色合いと温かさを一句にしている。とにもかくにも、「春は曙」と初五を字余りにして、ところで私は、清少納言が見たら喜ぶかもしれないような、これを味わっております。という句で、これも、なかなか上等な句ですね。