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花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第13回 (平成17年3月11日 席題 御水取(お松明)・アスパラガス)

地蟲出て相も変らず人愚か
虚子先生みたいな句ですね。「蛇穴を出てみれば周の天下なり」という「五百句」にでてくる句がありますが、あれと同じ境地でしょうね。年々歳々、毎年毎年、地蟲は出て来ては、半年以上地中に過ごして、また死んだり、穴へ入ったりする。また春になって地蟲が出てきてみると、「おい、相変わらず人間ていうのは、馬鹿なことをやっているね。」という、大自然の大きな営みの中での、さざ波のような人間の愚かな様々の日々が見えてきて、先生のお作りになるような句だなと感心しました。
廃校の決められてゐて開花かな
これ、面白いですね。人間が出たり入ったりして、過疎になったりする。そして、廃校になることが決まっている。その校庭の庭には、今年も去年のように桜の花が咲いたよ。というんだけれど、「(前略)桜かな」ではなくて、「開花かな」。ちょっと面白い、ある新しみがあって、面白いと思いましたね。勿論、花は桜の花です。
寺庇焦げよとばかり修二会の火
これもいいですね。こうやって、連想から句に仕立てあげる力というのは、なかなか大事です。そうやって作る力を鍛えていくことで、嘱目の時にぐんと深くなるので、大事です。しかも「焦げよとばかり」という持っていき方がいいと思いますよ。
友としてかつぎし棺春の雪
棺は柩という字があるんだけれど、どちらがいいんでしょうね。柩をかつぐ人数はせいぜい六人、息子や甥とか。ひじょうに特別な友人で、ぜひかついで下さいと家族達にも言われる。そういう間柄だった。そういう感じがよくわかって、春の雪の淡い悲しさも一段と。特別のやつだったのにな。向こうの家族も俺を特別と思っていた。そういう人なんだということがよくわかって、こういう句を見ると、俳句は散文よりも深いことを言えるという気がしますね。
湯気立てる白アスパラのしたり顔
この句を採るか採らないか、悩んだんですが、この句を読んで、鼻のところに茹で上がった白アスパラのにおいがしたんで、採りました。最近は日本でも、白アスパラがよく出てくるけれど、昔は缶詰しか出てこなかった。フランスに行くとアスパラガスの季節が決まっていて、突然パリ中のマルシェに白いアスパラガスが出てくる。マルシェの金物屋さんに円筒形の白いアスパラガスを蒸す鍋が出てくる。季節感そのもの。うまく茹で上げられたばかりのアスパラ、それを茹で上げた主人はやったーという気持ちがして、茹で上げられたアスパラガスはやられたという、したり顔をしている。日本だと食べたいものがあると、二月、三月前から出るけれど、あの国の人は出るまでじっと待っている。いかにもこれだという気がしていただきました。
白梅に肩をいからせ烏をり
この句、面白いですね。何で烏が肩をいからせるか、わからないんだけれど、見ていたら、烏が妙に好戦的というか、威張りまくって「寄るな。」と言っているような、そんな烏の感じが白梅でいっそうその黒さが強調されて面白いと思っていただいた次第です。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第12回 (平成17年3月11日 席題 御水取(お松明)・アスパラガス)

指ほどのアスパラガスの青さかな
これはうまい句で、アスパラがちょうどぽっと出た瞬間を詠み取った句だと思うんですが、元の句の「拇指」と書いて、「ゆび」という、実際には出た瞬間はもっと細い。だから普通の字使いの「指」となさった方がよいと思いますね。アスパラは多年草だから、十年くらい植え替えないで、何度も収穫できるんですね。
お水取練行僧のひた走り
NHK特集という感じでいいですね。やはり俳句は題詠と嘱目と両輪です。どっちもやらないと駄目です。こういう句と出会うと、題詠を出しておいてよかったなと思います。この句が上等かというと、それほど上等でもない。作り方は正しいんですね。芭蕉さんも似たような句を作っている。「韃靼僧の沓の音」というのが…。 二月堂は丘の方にある。二月堂の内陣に十一面観音が祀ってある。その奥で、十一人の練行衆が荒行をする。その間に木を打ち付けた、すごい音のする草履みたいなもので、かけずり回ったりする。この十一面観音を祀って、国土安泰、国家護持を祈る。それと同時に、お水取ということばの由来は、お水、閼伽水を汲むんですね。その下にある、若狭井から汲む。この若狭の井戸というのでわかるように、若狭の国から水を送って、地下水道を通って、二月堂に水が出る。若狭小浜の神宮寺の境内に湧く水を遠敷川(おにゅうがわ)の鵜の瀬から若狭井に流す。若狭湾に常世の国から寄せてきた常世波が地下水道を通って、若狭井へ出てくる。というお約束。新年のお水(若水)と同じ。水を十一面観音様に捧げるという行事なんですね。神道と仏教がめちゃめちゃに入り組んで、どこか日本の古い常世の国からのメッセージが、この国を守るという奥底の行事がお水取の行事です。お水取は夜中の二時か三時で誰も見ていない。お水取というのは、行事としては火の行事で、火の粉ばっかり目立つんですが…。そういうことを、題詠で作っておいて、いつか見にいらっしゃると、嘱目でできます。嘱目で見た句と、題詠で作った自分と、相乗効果で写生が進むとすばらしいと思います。そういう意味で、この句は採るに足りる句だったと思います。
ビルの脇を朝日上り来梅の花
あまり人気がなかったけれど、僕はこの句好きですね。都会の春先という感じがしますね。高いビルがあって、その脇に日が上っていて、ちょうどそのビルに沿った形で上ろうとしている。そのビルの谷間のちょっと広くなった所に、いかにもとって付けたように、梅の木が植えてあって、けなげに梅の花が咲いてをった。東京の街はビルが高くなればなるほど、ビルの裾野に空き地が多くなって、わざとらしい公園になって、木が植えてありますね。僕はそんな所にある梅の花を想像しました。鑑賞としては、そんなものが感ぜられて、それでも、東京にはちゃんと春が来たという句だろうと思います。
お水取の火の粉に人の波揺るる
これもテレビなどでご覧になって作った句で、けっこうなんですけれど、元の句「お水取火の粉に(後略)」では、ぱちっぱちっと出来ていて、嘘っぽくなってしまう。「お水取」と言うと、お水取を置いておいて、もう一度「火の粉」が出てくる。「お水取の火の粉」というと、棹の先に火の粉がバーっと散っている、そこまで一気に見えてくる。字余りというのは、こうやって効果的に使うのを覚えておおきになるとよかろうと思いますね。
谷底に湯治場のあり山笑ふ
いかにもありそうで、気持ちのいい句ですね。俳句は人の詠まない新しいところを作ってやろうとするより大事なのは、いかにも共感できる気持ちのいい句。湯治場の山だけ見えている。山だけぽこっと見えていて、「あの山だね。行ったことある。」などと話をしながら、見下ろしている人がいる。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第11回 (平成17年3月11日 席題 御水取(お松明)・アスパラガス)

蕗のとう包みてくるる指の荒れ

いわゆる生産者市場でも構わないし、もっと農家そのものでもいいんだけれど、「蕗の薹、持って帰んなよ。」と言って、新聞紙にざくざくっと、二、三十個包んでくれた。その音が、がさがさといいながら包んでいる包み方を見ていると、その指が全部荒れて、からからに乾いて罅が入って、土が細かいところまで染まっているような、そんな太い指だった。という句ですが、「指の荒れ」というところがむずかしいですね。そういうと、「指の荒れ」が包んでくれるようになってしまう。「蕗の薹を包んでくれる指」で切って、その指が荒れていると言わなければいけないんだけれど、表現として飛躍というよりは、ふつつかですね。何とかしたいところなんだけれど、短時間にこう言ったらという提案を、うまく練りきれませんでした。

 トランプの恋占ひや春の風邪

 いかにも春の風邪らしい。熱があるわけでもないけれど、ぐずぐずとしてをる。思春期の少女でしょうね。今日は風邪だからと言って、ガウンをまといながら、ベッドに入らずにいる。それがトランプの恋占いかなにかをしている。と言った風情で、まことに「春の風邪」という季題趣味に寄り添った句だと思います。ただし、こういった句がこれまでに無かったかと言えば、世の中にあったかもしれません。ただ毎回言っているように、あったからと言って、正しい作り方をしていれば、採るというのが私のやり方です。

 

あお向けに寝て鼻先に寒さあり

さあ、この句は大変人気があった句でいいんですけれども、「余寒」というのは、寒があけて春になったのに、そぞろ背中が寒くなるような不愉快な寒さを余寒。(元の句、「余寒あり」)この句の場合には、「おお、寒い寒い。」といって、寝た後、この場合、ベッドでなくて、畳なんですね。それも、家族が温めておいた部屋でなくて、一人で帰ってきて、あるいは自分の家でなくてもいいんですが、ふとんが敷いてあって、とにかく寝てしまおうと寝たところが、空気が冷えていて、鼻先あたりがその空気の高さがまだ寒い。「余寒」というと、「一旦暖かくなったのに、またね。」ということ。この句の中心は、鼻先が寒い。低いですからね。畳の高さは。「余寒」というと、この句の焦点がぼけてしまう。だから、実際は余寒だったろうけれど、句としては、掲句のようにするといいと思いますね。ちなみに、最近のある大結社の流行は、「鼻先にある寒さ」と下五に動詞の連体形に名詞がつくというのをやっていますね。病気のように。

歯ごたへを残し茹であげ松葉独活

元の句、「茹で上ぐ」。これだと、終止形になって、いっぺんこれで切れる。「茹であぐ」というと、「松葉独活とはそんなものであるよ。」「茹であげ」というと、ポーズはあるんだけれども、意味が違う。「はい、こうして茹であげましたところの」という、連用形のよさですね。連用中止法というんですが、一旦軽く止める。この場合には、「茹であげ」と言った方が、いかにも湯気がほわほわっと、この場合、グリーンアスパラだと思うんですが、アスパラの感じが見えてくると思います。くたくたっとならない…。

日々かくも寒きまゝ梅咲き残り

この作者の一つの境地に、一つステップアップなさったと思いますね。もともと、いろいろ内蔵していらっしゃる方なんだけれど、こういう句作りをできるようになったということは、ここで大きく段を上ったなという気がして、嬉しく思いました。この句は厳密に言えば、季重ねです。「寒さ」という季題と「梅咲き残る」という季題。勿論、この句は「梅咲き残る」という「梅」が季題なんですけれども。「寒い日が毎日、毎日だけども。ああ、梅が残ってるな。」それだけれども、理屈になっていない。この句と出会えて、今日は嬉しゅうございました。