花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第80回 (平成18年5月12日 席題 海亀・夏蕨)

無人駅降りる人なく昼蛙
優等生の句ですね。無駄がなくて俳句の内容と形が定量だという感じで、気持ちのいい、姿のいい句ですね。無人駅にふーっと行ったんでしょう。無人駅のあるような所だと、もしかすると単線で、駅ですれ違うことがよくありますね。そうすると、開いたまま、待っているというと、走っている音もしないし、ほとんど音もない。しゃべっているお客もいないような所だと、田んぼの昼蛙の声がくわっくわっとずっと聞こえている。そのうちまたブーンと音がして、単線の向こうから電車が来て、タブレットが交換されてなんていうような場面が存分に入っている。それだけの景色なんだけれども、その前後がよくわかる句。いかにも俳句らしいし、俳句という文芸ジャンルがこういう内容をもっとも得意としていると思いますね。
この花の箱根うつぎの名も好きで
「名も好きで」と言われると、さようでございますかということになってしまうんですけれど…。薄いピンクとクリーム色(白?)の咲き分けになっている。なかなか柔らかいトーンの花でいいんですけれど、それにまた「箱根うつぎ」という名前がついていることも好もしいということだろうと思います。主観をわざと前に出してしまう。それも一つの客観写生の手なんですね。
露地苺ルビーとなりぬ鍋の中
専門家がおられるので、解説しにくいんですが、露地でできた、若干酸味の強い小粒の苺を、ジャムにしようと、煮始めたんですかね。その時、スーっと透明感が出てきた。その瞬間をルビーというふうにおっしゃったんだと思います。火の入っていない時には、赤いけれど、透明感とは違う赤さだった。火が入ると、急に透明になってきた。あ、これは宝石のルビーの色なんだと気づかれたということだろうと思います。
屋敷林毎の花棕櫚高きかな
近年、屋敷林というのが、たいそう注目されております。どこにでもあるけれど、たとえば砺波平野とか、あの辺に行くと、屋敷林で全部囲まれて、季節風を塞ぎながら、いわゆる砺波の散居村なんていうのは、そんな景色ですね。元の句は「屋敷林毎に」でしたっけ?「毎に」になると、どこにもありましたというところに興味の中心がある。「毎の」になると、「高き」の方に興味がいく。高々と、点々と伸びた棕櫚。その先に黄色い花が目の前で在り処を得ている。という景色がいいたいのだから、「屋敷林毎に」では駄目です。これは単純にことばの技術の問題です。
花水木今宵の宿の丸木小屋
これも元の句、「今宵の宿は丸木小屋」。というと、昨日の宿は「露天風呂」。明日の宿は「シティーホテル」とか、変わっていく中での今日はということになる。変わっていく中での「今日は」というのは、この句の中心部ではない。この句の中心は「丸木小屋」のような、いわゆるコテージ風の宿だというところが言いたい。とすると、「今日は」と言って、「昨日は」「今日は」「明日は」というところに注意が散っては、もったいない。ですから、「は」なんて、絶対言ってはだめで、「今宵の宿の丸木小屋」とすれば、眼前に丸木小屋だけが見えている。ということで、「花水木」が効いてくる。「花水木」は日本の在来種の水木と違って、いわゆるドッグウッドで、数十年のうちにアメリカから大量に輸入されてきた花。そうすると、丸木小屋の、レゴハウス的な宿を建てる趣味。花水木を植える趣味。西洋風な佇まいで、お客に魅力を感じさせようという狙いが見えてきて、そこに今日は泊まるんだ。というと、近くに、針葉樹の森があったり、大きな湖があったり、フライの鱒釣りをしている人がいたりという景色が見えてくる。


花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第64回 (平成18年2月10日 席題 実朝忌・片栗の花)

面着けて小鬼元気や豆を撒く
元の句、「面着けて小鬼元気に豆を打つ」。鬼は豆を撒かれる方だから、原句だと意味がわからない。子供が鬼の面をつけて鬼の役をやって、大人が豆を撒いているというのが、場面としては真っ当でしょうね。徒然草などに出てくるのは、宮中ではちゃんとした役人が駆けずり廻って逃げる。今は知りませんが…。豆は打つでなく、撒くですね。
公魚のきらめく腹をひと撫です
元の句、「ひと撫でし」。これだと、ちょっと軽いですね。「す」と終止形で抑えた方が、重みがきちっとすると思いますね。釣れたばっかりの公魚を、穴釣りでも、ボート釣りでもいいんですが、ちょっと手でもって、腹のあたりを撫でてみた。というと、いかにも小さな小さな公魚の、そのまた哀れな腹の様子が見えてきて、いいなと思いますね。
着ぶくれて三人掛けに二人居り
これは何の三人掛けだかよくわからないんだけれど、例えば電車のような所だとすると、三人掛けになるような広さの所なんだけれど、着膨れた人が真ん丸になって、二人掛けでちょうどいい感じがした。それをマナーとして責めてるわけでなく、ちょうどぴったりなくらいね。という感じ。足も短くて、床につくかつかないかみたいな、おばさんみたいな人を感じますね。
地に落ちてすぐ消える雪実朝忌
「雪」と「実朝忌」と、季重ねになっていますけれど、毎回言うように、特異性の強い季題が入っていると、そちらが強い。時期、時間限定性が強いのもそれです。実朝忌は、何日と決まっていますから、雪と出てきても、雪は弱い。従って、実朝忌の句として、なんら困ることがない。こういう作り方は季重ねがこわくない作り方ですね。
交りたる蛙動かぬ池の底
蛙って、本当に不思議なんで、蛙が交っている時って、気持ちの悪いように、何十匹何百匹交りながら、一方で産みながらという凄い状態がある。これは交っている蛙が動かないでいるというんだけれども、それが一塊でなくて、相手を変えながら凄い場面なんです。そのある一瞬を、凄い場面なのを、淡々と詠んだという面白さがありますね。俳句の一つの面白さですね。