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花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第15回 (平成17年4月8日 席題 花一切・虚子忌)

伸びをしてもう一仕事暮遅し
季題は「暮遅し」。「遅日」とも言うし、「日永」とも言いますが。根を詰めて仕事をしていた。「ああー。」と背伸びをして、「今日はこれで止めておこうかな。」と思ったけれど、まだまだ明るいので、もうちょっとやってみましょう。この解釈、あまりやると、屋外の仕事かということになるけれど、デスクワークでもよろしかろうと思います。ただ、この仕事ぶりが、管理されていないところが、面白いですね。悠々自適の人が、たとえば自叙伝かなにか書いていて、もうちょっとやろうかなどと、悠揚迫らざる暮らしぶりも見えてきて、楽しいと思います。
花の中に埋もれイギリス大使館
見たままを見たままで詠めるということは、尊いことだと思いますね。これで結構です。イギリス大使館は古くからあるし、囲いも大きいし、自ずから景が広がってくると思います。
家墓は菜の花畑の真中に
お寺さんの檀家で、お寺に墓地がある場合もあるけれど、田舎に行くと、屋敷墓と言いますかね。一角、畑と畑の間にお墓があることがあります。たしか韓国辺りの景色にこういうのが多いですね。菜の花の咲いている中に家墓があった。よく桜の下には、死体が埋まっていて、桜の花が異様にきれいになるという話があるんだけれども、菜の花の下にという話は聞いたことはない。けれども、埋葬した土から生えてきた花の妙な美しさというものを、この句の場合、ちらと感じましたね。
甘茶寺詣でやさしき人となる
「甘茶寺」で季題にするんでしょうね。「甘茶」が季題になります。つまり、「仏生会」、「花御堂」を設えて、そこにお釈迦様の像を置きます。つまり天上天下唯我独尊という形をとっておりますが、そこへ甘茶をかける。それが甘茶仏であります。四月の八日。ちょうど花祭りということになりますが、そうやって詣でた時に、なにか仏心というようなものが芽生えて、「今日は私がやさしいような気がする。」「今日ばかりは仏心があるぞ。」というユーモアが面白いと思いますね。
桜より高く靖国大鳥居
なるほど、言われてみれば、靖国神社の鳥居は、高いですね。他の神社に比べると。特に九段下から仰ぎながら上ってくるというと、一層鳥居の高さが際立たしいです。これが、たとえば明治神宮の鳥居だって、決して低くないんだけれども、同じ高さから見通しますから、それほど高く感じないけれど、靖国の鳥居ばかりは、下から坂を上る分だけ、高さが一層強調されますね。そして下から見る桜が満開であるということで、ある感じが出ていると思います。叙景だけでいくところがいいですね。ここに若干でも思想的なものが加わると、とんでもないことになってしまいそうで恐いんですが、全くそういうものを感じさせない没思想なところが、救っているかもしれませんね。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第14回 (平成17年4月8日 席題 花一切・虚子忌)

咲き満ちて風花ほどの落花かな
ちょっとことばがもたもたしているんで、景が結びにくいんですね。もしかすると、「咲き満ちて」が言い過ぎているのかもしれません。ただ、落花が花吹雪のように散るのではなく、ほんの一、二片、上に舞い上がっていく。それを風花のようだという捉え方は、いい感覚だと思いますね。
入学の子らのおはようまちまちに
この句、よく見ていると思います。季題は「入学」です。小学生でしょうね。先生が門の辺りにいて、皆おはようと言うんだろうけれど、小さい声の子や、大きい声の子、立ち止まって声を張り上げる子やいろいろある。それが様々だ。学校へ入って、しばらく教育されれば、皆大きな声で、「おはようございます。」と言うようになるのだろうけれど、入学式ではまだまだ個性が勝っていて、そういう意味では馴れていない感じがよく出ていると思います。
天空を隠してあまる桜かな
いっぱいに桜が咲いて、空が見えないということなんだけれど、それを表現するのに、「天空を隠して」というのは、調子が高くていいと思いますね。「天空」 ということば自体、ひじょうに調子の高いことばで、そう言われてみると、桜が堂々たる、大きな桜なんだろうなということがわかってくるし、格が高いですね。ひじょうにいい句だと思いますよ。
お茶漬けに青ぬたそへて急の客
「急の客」まで言ってしまうと、言い過ぎかもしれませんね。「お茶漬けに青ぬたそへて出しにけり」とか言うと、「急な客でもあったのでしょうか。」というように、こちらの解釈がそこにくるわけね。それを僕に解釈させてくれないのは、ちょっと困ってしまう。でも、気持ちはね。「何にもありませんけれど。」と言いながら、お茶漬けだけかと思うと、ちゃんと一皿青ぬたがついてきた。こんな時間に来てすいませんでした。と言いながらも、そのお客さんに「ほ、ほう。」という気持ちがあるということだろうと思いますね。
にこやかに花の案内の警邏かな
この句は「警邏かな」という、一時代前の時代がかったことばによって、その警察官の年格好、表情、ちょっと白髪混じりで、相変わらず巡査部長とかで、警部とかになれないお巡りさん。そういう感じがよく出ていて、今日あたり、千鳥が淵には、そういうお巡りさんがたくさんおられましたね。