田植 « 夏 潮

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第90回 (平成18年6月9日 席題 蝙蝠・籐椅子)

墓前祭老鶯長く長く鳴き
この「長く長く鳴き」というところに、作者の心がよく籠っていますね。どなたの墓前祭だかわからないけれども、「惜しいな。なんかひょっと出てきそうな気がする、あの方。」と思う時、老鶯が「きょきょきょきょきょきょきょきょ」と鳴いて、「ああ、ずっと鳴けよ。」という気持ちで、それはどこか故人を慕う、あるいは偲ぶ気持ちにもうついてきている。その時に「長く長く」という繰り返しが、ひじょうに情感が籠められていて、いい句だと思いましたね。
よしきりの鳴いてさざ波立ちにけり
    うまいですね。よしきり、行々子です。葦みたいなところに、ひゅっと止まると、雀より一倍半くらい大きいですから、「ひひゅーい」(揺れるさま?)「ぎゃぎゃっぎゃぎゃぎゃぎゃ」って時に、風が吹いたんでしょう。水面がささささっと動いた。つまり行々子の音の動きと、風が吹いたという水面のある瞬間が、音と映像から見事に再現できた。という点でうまいと思いますね。
作り滝の音心地よき真昼かな
どっかデパートの屋上でもいいし、椿山荘でもいいです。本当の滝ではない。ともかくこの句は、見えているよりも音を楽しむというところに、作り滝のなるほど本情だなあと思いましたね。
田植ゑする五人のお婆声高し
元の句、「五人のお婆高き声」だった。これだと、さっきと同じ話になってしまう。「高き声」だと「声が高い」という説明になってしまう。「声高し」というと高さの表現。「高き声」だと、散文的です。
新調の足許軽し梅雨曇
「新調の足許」というと、わかりますね。靴って言わなくっても。スニーカーでもいいんですが。買ったばかりのスニーカーが、ああ気持ちいいと思っていると、梅雨晴れとはいかなかったけれど、梅雨曇りで降っていない。梅雨曇りを満喫している。その感じがよく出ていると思いました。


花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第88回 (平成18年6月9日 席題 蝙蝠・籐椅子)

籐椅子を出して隅々拭きにけり
その通りであります。この句のいいのは、その通りであって、感想が入っていないですね。事実だけをぽーんと言っているのが、ある骨法を得たと思うんですね。それが、拭いて疲れたとか、懐かしかったとか、拭いて母を思い出したとか言うと、ちょっと味が濃くなってしまう。事実だけを提出して、句の背景は読者に思わせるという点では、俳句の骨法を心得た句だと思います。
蝙蝠の目に宿りたる強き意志
これ、面白いですね。なかなか蝙蝠の目って、見るチャンスはありませんけれど、ただ白目がないですね。当たり前だけど。白目がないということは、人間や他の動物の目は白目の部分が、迷いとか、動きが出たり、ためらいとかが、白目と黒目のバランスで出るんですね。蝙蝠の目を見ると、黒目ばかりで、そこにためらいも何もない。強い意志を感じたというので、蝙蝠のことをよくご存知の方だなと思いました。「強き意志」がいいと思いましたね。
垣根より南天の花はみ出しぬ
こういう句が出来る。句歴何十年の方が、こういう抑制の効いた句がお出来になるというのは素晴らしいですね。それでいて南天の花の感じ、そして実になったら、どうするんだろうということが見えてくる。
新しき一歩踏み出し立葵
たしかに立葵は、子供が並んで立っているような感じがしますね。「新しき一歩踏み出し」、立葵が一歩踏み出したようにも感じたでもいいし、自分がそこに一歩踏み出した。もっと寓意的に自分のある何かが一歩踏み出したでもいいでしょう。どのみち、立葵というものの姿からは、一歩踏み出すということばは、まことに素直に出てきて、感じが運べていると思いました。
やませ吹く田植の丸き背をなでて
これ、面白いですね。この句の背景には、冷害が見えてますね。これは冷害になるなという、岩手県から宮城県あたりの稲作の、そして若い労働者がいなくなって年をとった人たちだけで何とかやっているんだけれど、今年はやませがずいぶん強いよ。と言いながら、丸くなった背を時々伸ばし、腰を叩きながら、田植をしている。でも、おそらく今年はそれほどの作柄にはならないだろうといったようなことを、どこかに感じさせるいい句だなと思いました。(質問に対して)「季題は田植です。やませは虚子歳時記では、季題になっていないでしょう。」