花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第82回 (平成18年5月12日 席題 海亀・夏蕨)

主なきを知らぬふりして咲く牡丹
何か不幸があって、その家の庭に主ないことを知らぬように、牡丹が咲いておった。そう言えば、生前ここの主は、牡丹を自慢してをったことよ。「知らぬふりして」まで言ってしまうと表現としては味が濃いかもしれません。「知らざるままに咲く牡丹」ぐらいになさった方が、すんなり行くかもしれません。どの道、情の濃い句ですから、表現は若干すこしあっさりなさった方がいいかもしれません。
不調和につるの細々鉄線花
元の句、「不調和なつるの細さよ鉄線花」では、説明。「細さよ」という、大きな鉄線の花とつるが細いという不調和を見つけた作者の手柄が表面に出てしまっていて、諷詠になっていない。特にいけないのは「細さよ」と強調してしまっている。「不調和につるの細々」とすれば、それは表現になる。おわかりいただけますかね。「説明と表現、あるいは、説明と諷詠の違い」。それが大事ですね。
鐘楼に泰山木の花散れり
これはいい句ですね。こういう,いい表現でこようとするのでなくて、ある好ましい景を詠む。実に大切な世界で、これを忘れてしまうといけない。鐘楼があって、その近い所に泰山木がわさわさわさっと繁ってしまった。そこに大きく咲いた泰山木がぱらぱら散って、鐘楼の屋根にも積もる。ということだろうと思います。
夏蕨もてなす程の嵩もなく
これはもう全員が採ったような句ですから、解説の要もありません。ただ、先程の山荘の句と併せると面白いですね。夏蕨だわ。と採ったけれど、四五本。自分たちだけならいいけれど、お客様がいらしてお出しするには、あまりに少ない。ということで、とても素直にお作りになった句で、いやみがなくて、これがぽっとおできになるということは、俳句を作ってこられた至福ということができるでしょう。
母の日を祝ふことなく祝はれて
悲しい句ですね。今は母の日を祝いたくても、祝う母はいない。けれど、私は毎年祝われるんだ。私は祝われるよりも、祝っていた時の日々が、いかに充実した日々であったことか。といった、女の人の生涯のある時期の感慨といったものが、しみじみと伝わってくると思います。さらっと一気に言っている、表現もいいと思います。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第25回 (平成17年5月13日 席題 蛞蝓・橡の花)

街路灯にかぶさるように栃の花
元の句、「街路灯かぶさるように」。これも、「街路灯に」と字余りにした方がいいんでしょうね。街路灯がかぶさっているのか、栃の花がかぶさっているのか、わからない。字余りにして、「街路灯にかぶさるように」とすると、栃の枝がずっと伸びて来て、かぶさるようになった枝、その枝に花が咲いているんだというのが、はっきりわかりますね。
満開の藤棚の下六地蔵
いいですね。六地蔵。六道輪廻。六つの世界があるわけです。その道しるべになっているのが、お地蔵様です。どこにあったっていいようなものですが、それがたまたま藤棚の下にあった。と言われてみると、藤色の紫の、紫雲といいますが、仏様が顕われたり、偉い人が亡くなったりすると紫の雲が立ったという話はいくらも高僧伝には出てきます。そんなことまでも連想させる紫色のよろしさというものが、こうやって仏様の上にあるんだ。ということで、六地蔵のあり場所としては、なかなかすばらしいなと思いました。
夏に入る自転車の娘の髪軽く
元の句、「自転車こぐ娘の髪軽し」。これは「こぐ」は要らないでしょうね。それは散文です。「自転車の娘」で、もうこいでいます。「髪軽し」では「夏に入る」が薄くなってしまう。「(前略)髪軽く」でもう一回、「夏に入る」に戻る。そうすると「夏」がしっかりと見えてくる。「髪軽し」だと、髪がしゅーっというところに集中して終わってしまうので、季題が何だっけということになってしまう。
二階より眺め牡丹の花白し
これもいい句ですね。牡丹というのは、近くから見ると、仔細を見たくなる。蕊はどうだ。花弁はどうだとね。ところが遠くから見ると、仔細は見えません。ですから花の形状というよりは、色で見えてくるんですね。元の句、「二階より眺む」では、ちょっと重いね。「眺む牡丹」て、牡丹にずーっと気持ちが集中できない。「二階より眺め」って、軽く切って、「牡丹の花白し」とお詠みになった方が、この句の牡丹の白さが出てくると思いますね。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第24回 (平成17年5月13日 席題 蛞蝓・橡の花)

朴咲いて白馬村なる日和かな
元の句、「白馬の村の日和かな」。『白馬の村』というと、『白馬の騎士』みたいになってしまって、あるいは、白い馬がたくさんいる村みたいになってしまいますね。白馬の村はちょっと無理でしょうね。もしかして信州の白馬村だとすればね。そうしたら、白馬村とおっしゃらなければ無理なんで、掲句のようにすると、なるほど、栂池とか、天気がよければ、上の白馬槍とか杓子とかが見えている。その日和も、想像できると思います。
雨音に明日の牡丹を思ひをり
牡丹が庭に咲いてをった。今日はきれいだった。雨音がしてきた。どうだろう。明日見てみよう。こぼれてしまった花弁があるかもしれないなー。だからと言って、シャッターを開けたり、雨戸を開けたりして見るわけではないんだけれど、頭の中で、今日一日見ていた牡丹と、明日の朝の変わり様を、心配しながら、雨音を聴いているという句。元の句の「思ひやる」だと、ちょっと違う。「思ひやり」とか「思ひやる」だと、情が籠り過ぎてしまって、味が濃くなってしまう。「思ひをり」と少しクールにしてしまった方がいい。
京御幸町上ル西入ル新茶買ふ
どこだか存じませんが、上ル西入ルで、大きな碁盤の目から外れていない部分だということが、この表記の仕方でわかる。古い葉茶屋さんがあって、わざわざ買いに行った。おそらく京都の人皆が好む、新茶が宇治から運ばれて、京の 町中で、売られているのであろうというところまではわかりますね。
密柑山の花の香りに誘はれて
これ、最初から「密柑山の」と字余りでしたね。大分、表現のコツを飲み込まれたことを、嬉しく思います。「密柑山花の香りに(後略)」では歌謡曲になっていってしまう。「密柑山の花の香りに」とすると、突然上品になって、その香りがひじょうにいい香りで、たまたま上る気はないんだけれども、あまりの香りのよさに、「ちょっと上ってみようか」というので、畑につれて上ってみた。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第21回 (平成17年5月13日 席題 蛞蝓・橡の花)

伐採の青葉の香り道包む
季題は「青葉」ですね。伐採は間伐でもいいんですが、何かのことで、青葉の茂っているのを伐ることになった。チェーンソーの音がして、道の辺りに、葉がついたまま枝が盛り上がっている。そんな所を歩いたところが、その香りが道全体を包むようにあった。ということです。元の句、「伐採の青葉香りて道包む」。これだと、青葉が道を包むことになる。香りが道を包むんでしょうね。そうすると、掲句のように「伐採の青葉の香り道包む」としないと、句としては成り立たないですね。
麓なるつつじの色へ下りけり
つつじの色というのは、何も一色ではなくて、いろいろの色があるんだけれども、目が痛くなるような赤い色ってのがあるんです。外の花にはなかなか無い色なんですけれど、つつじの最も特徴的な色でしょう。小高い丘から下のつつじの方へずっと降りてきた。それはつつじへ降りるというより、つつじの色に降りていくような感じがしたということで、霧島とかの高原の感じでもいいし、 どこか植え込んだ六義園とかの築山を見るのも構わない。あるいは小石川の植物園の上から下へ降りてくるのも、こんな感じがしますね。そんな心楽しい句だと思います。
平均台のやうに茎来し天道虫
元の句、「平均台のやうに草来し天道虫」。『葉』だと平均台という感じがしない。茎だと、なるほど天道虫の腹より茎の方が狭いことがありそうで、平均台という比喩が生きるでしょうね。
牡丹描いて牡丹見ている昼下り
ちょっと感じがある句ですね。牡丹が咲いたので、牡丹を描いてみましょうというので、描き始めた。しばらくして描き上がってもいいし、途中で描くのを止めて、他のことを考え始めてしまって、手は止まったままで、牡丹を見ていた。描き上がったわけではないが、描く気持ちではなくなって、ほかのことを考えながら、牡丹を見てしまったという方が、句としては、深いかもしれませんね。元の句、「牡丹描き牡丹見ている」。これだと、説明っぽくなってしまいますね。「牡丹描いて」と字余りになさった方が、この句はかえって生きるかもしれません。
湯気もまた緑色なす新茶かな
ちょっと出来過ぎている。湯気が本当に緑色かというと、そんなことはないんで、湯気の下にあるお茶の緑が映えて、湯気もそんな感じに見えたというんでしょうけれども、それを強引に「緑に見えます。」と言った潔さもいいのかもしれません。でも若干危険分子を含んでをりますね。
葉桜のたはむるるごとそよぎをり
元の句、「たわむれるごと」。「たはむるるごと」でしょうね。「たわむれる」は口語ですね。「たはむるる」は文語。なるほど花の咲いている時に、揺れていると、『戯れる』という感じより、「まあ、散っちゃったら、どうしよう。」なんて言う方に、人間の気持ちが行ってしまう。葉桜だと、よほど風に吹かれても、現金なもので、安心して見ていて、まるで『戯れているようだな。』葉裏と葉表に、若干の色の違いが、それほどけざやかではないんだけれども、出てきて、面白いですね。葛の葉みたいに表と裏の色が全く違うというと、もっともっと違う印象になりますが、でもこの葉桜の気分がよく出ていると思います。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第3回 (平成16年12月10日 席題 鰤・紙漉)

黒マフラー跨ぎ人過ぐ銀座かな

この句、面白い句ですね。「マフラー」が季題です。高田風人子という作者に、「マフラーや銀座新宿人違う」という句があります。まあ、それは昭和二十年代の銀座と新宿の違いでしょうね。今はそれほどの差があるかどうかわかりません。ただ、黒マフラーというものの持っている、あるシックな気分と銀座。そして皆跨いでいく。拾って、落としましたよとは、誰も言わないという、一つの銀座というものの様子が出ているなと思いました。

 

下足札持ちて座敷へ三の酉

一の酉、二の酉、三の酉で、今年は三の酉までございました。勿論、酉の市の帰りに流れるのは、いい人は浅草へ、わるい人は吉原へということになるんです。この人はよい人で、浅草へ流れたわけですね。米久だとか、どこかわかりませんが、そういう大きな、印半纏を着た下足番がいるような、そんな所に、「まあ、久々ね。」と、米久だと太鼓がどんどんと鳴って、上がっていく。というような、寒いところを来た。でも、店に入った、くつろいだ気持ちが出ていて、よろしかろうと思います。

 

冬木立遠き景色も招き入れ

この句は、採るか採らないか悩んだ末に採ったんですね。この句、とても奥深い句で、「招き入れ」というところに、実にうまい景への心の傾きが出ていると思います。ただ、ちょっとわかりにくいところもあるんですね。冬木立に透けてくるんだけれども、冬木立の隣った分に遠い景色を招き入れるともとれるし、自分の家の窓の景として、冬木立が透けたために、窓の景として招き入れることが出来たともとれる。そこのところが、若干、焦点が絞り切れていないところがあるんです。ただ、景を「招き入れ」るという表現には、ほとほと感心をしたわけです。

 

葉牡丹のひしめき合へる花壇かな

これもなかなかまっとうな句で、花壇がちょっと傾斜しているような気がして、面白いなと思いました。

 

短日やけふの仕事をまた延ばし

ただでさえ日が短いのにまたこの仕事を延ばしちゃった。ということで、よくわかる。師走とは言わないけれど、気分は師走であるということですね。