花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第10回 (平成17年2月18日 席題 梅・余寒)

解体のビルの大穴冬の晴

この句、すごく面白かったですね。どこかちょっとしたビルから隣の解体のビルを見たら、囲っている下が異様に空いていて、はは、そのことなんだということに気がついた。常識とか先入観をとり払って、言われてみればそういうことなんだよな。持ってくる季題が、「冬の晴」というのが、面白かったですね。「炎天」とかでは、辛くなってしまうし、「うららか」では、ビルは大きな穴の感じはしないし、「冬の晴」という感じが確かに面白いと思いますね。

今日の酒辛し白魚ほの甘し

元の句、「今日の酒辛く白魚ほの甘き」。「辛く」とすると、説明っぽくなってしまう。「辛く」だと、「今日の酒。」では「昨日の酒は?」となってしまう。いやなことがあって、「今日の酒は辛いな。でも、白魚が甘いから、まあいいか」という感じがする。「今日の酒辛く」にすると、「昨日の酒、一昨日の酒」が連想される。いいようだけれども、「白魚」が目に見えてこない。一中さんの心持ちは表に出るけれども、白魚がかすんでしまう。俳句は季題が表に出ないといけないから、「今日の酒辛し白魚ほの甘し」とした方が、白魚が生きますね。

早茹での菊菜の皿の青さかな

「菊菜」、「春菊」ですね。春菊というのは、匂いも強いし、色も若干がさつで、たとえば水菜などに比べると、一等位が低いと僕などは思っているんだけれども、でも、その春菊の皿が青々と見えたというのは面白いなと思います。香りの強さ、色の強さ、春菊の力強さがあっていいですね。

残寒に句友また一人帰らざる (訃報届く)

「句友また一人」、この字余りはいいんです。これが五・七・五ですっと行ったら、つらい思いは伝わりませんですね。わざわざ中七を字余りになさったことで、亡くなった方への哀惜の念が強くなると思いますね。

湧き水の湧き口あたり落椿

元の句、「湧き水の湧き口に浮く」。これね、皆さん、たくさん採っていらしたけれど、本当にそうかしらね。湧き水の湧き口に浮いていられるかしら。流れちゃうでしょう。だから湧き口には浮いていないんですよ。湧き口近くに引っかかっている。物理的に大変むずかしい状況だけれど、「湧き水の湧き口あたり」とすれば、湧き口のところに水が湧いているけれども、何かの事情で引っかかった落ち椿が浮いてをったという景になるんですね。俳句は嘘は困る。作者が嘘をついているというわけではないけれど、表現がまずくて嘘になってしまう。これはまずい。

賑やかに梅見の人等旗立てて

元の句、「梅見の一団」。この字余りはよくない。しかもこの「の」が説明っぽくしている。旗を立てているんだから、おのずから一団でしょう。そしたら、人等でいい。「一団」ていうのは、屋上屋を重ねた表現になってしまう。普通の人達ではないな。00歩こう会とか、X X 老人会だなと。そうすると、しみじみとした梅見ではなくて、ちょっとしゃべりながら歩いての梅見。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第9回 (平成17年2月18日 席題 梅・余寒)

梅林の海に落ち込む海の色

「海に落ち込む海の色」というこのレフレインがちょっと面白いです。海の色は勿論青々としているのだろうと思われます。

裏道を辿るすなはち梅辿る

「すなはち」というところなどは、なかなか技術が身についてきていますね。裏道は日陰なんでしょうね。日陰の裏道に梅が植えてあって、その梅の白さと香りを楽しみながら歩いている。そんな感じがしました。勿論、皆さんお採りになったのは、「辿る」ということばの繰り返しの中に、ある春先の心躍りも無くはないという気がしました。

人降りて葦刈舟の揺れやまず

この句は不思議な句なんです。季題は「葦刈舟」なんで、今時よりもずっと何ヶ月か前の、葦刈りの季節になるわけです。冬場、初冬になって、枯れた葦を葦刈にして、いろいろ使うんでしょう。その葦刈舟がこの句の場合、刈った葦を載せてきた舟から、葦を取り上げてをったらば、その間、葦刈舟がもやいに繋がれながら、渡舟場というかな、ポンツーというかな、で揺れてをったという解釈が普通だと思います。ただ、この句、いろいろな解釈が出来て、葦刈舟を三十センチ位の深さのところまで引き込んでおいて、水の中に降りて葦を刈っているという場面もありうるんで、それはそれで面白いと思います。ただ、その場合、「揺れやまず」がすこし大袈裟というか落ち着かないんで、場面としてはずっと面白いんだけれども、冒頭に申し上げたような解釈の方が真っ当であると思います。

松手入来園客に目もくれず

元の句、「松手入来園の者に目もくれず」。この字余りは致命的ですね。ことに、「来園の」の「の」が説明くさい。たどたどしい。この「松手入」は秋の季題ですから、そのつもりで、秋の空気の澄明さを背景に考えながら、この句を味合わないと間違ってしまいますね。「松手入」は床屋さんのような手つきでやる、独特なんですね。

梅見客一駅ごとに降りてゆく

元の句、「(前略)降りてゆき」。この止め方だと、軽過ぎますね。いつも言うことだけれど、そういうことに気がついた自分が見えてしまう。俳句に詠まれた景が読者に伝わるべきであって、俳句を詠んでいる人の顔が読者に伝わっては失敗です。「降りてゆき」だと、そういうことに気がついた私って、観察力があるでしょと言っていることになってしまう。「ゆき」が軽過ぎて、しかも作者の顔が見えて、この句は損をします。「降りてゆく」とそのままに詠んだ方がいいと思いますね。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第7回 (平成17年2月18日 席題 梅・余寒)

ろうそくを立ててかまくら完成す

たしか去年の今頃、「かまくら」という席題で、皆さん作って、僕もかまくらの句で遊ばせていただいた記憶があるんですが、この句はこの句でよく出来てますね。しかも昔ながらに子供が作ったかまくらではなくって、観光協会とか、そんな町の大人が、いくつもいくつも作って、「さあ、これで出来上がりだ。」というところに、子供がやってきて、水神様を祀る。そんな感じがあって、大人の作った感じが、「かまくら完成す」というリズムですね。「ろうそくを立ててかまくらできあがる」とか「できあがり」というと、子供が作ったような感じがありますが、「完成す」と言われると、町の青年団かなにかが、子供に代わって作っているような、そんな感じがあって、面白いと思いました。

風止んで梅見日和と云ふべかり

これは実に俳句の骨法を心得た作り方。風がひゅーひゅー吹いているうちは、梅はきれいであるんだけれど、心が落ち着かなかった。昼頃から、風が止んでみたらば、マフラーが邪魔なくらいの感じがしてきた。「ああ、これが本当の梅見日和かしらね。梅にあっている。」ちょっと手前勝手な句ですけれどね。本当は寒いのが、梅見日和で、ほの暖かくなったら、花見日和みたいになるんですけれど、そこは人間の心理で、面白いと思いましたね。午前中の風のある時から、昼頃、ぱたっと風が止んだ、そのタイムスパンが見えてくる、そこが面白いと思いました。

梅見頃臨時改札山の駅

ようく目の届いた句でいいですね。梅の頃になって、ある山の駅に臨時改札ができる。普段の改札口は、集落の方に一つあるきり。上りで降りようが、下りで降りようが、一本のホームをずっと片方の方へ行って、そこから出る。梅林は丘がかった所にあって、梅林へ行くお客にとって、一旦、集落の方へ行って改札を通って、また道の方へ行くなんていやなこったというような人がたくさんいるんで、反対側の山の口あたりに臨時改札口を作って、電車が着く度に、駅員が出向いて、臨時改札をしておる。といったような、一年の間にせいぜい二週間位しかやらないんだけれど、村にとっても、その人にとっても年中行事みたいになっている。というようなことが、すべて見えてきて、いいですね。この句のよろしさは、ああだこうだと説明していない。見えたものだけを、材料をとんとんと列べて、今僕が解釈したような内容をきちんと伝えているという点で、上等な句だと思いました。

賛美歌も花も余寒の葬儀(はふり)かな

ちょうど寒が終わった頃というのは、病の人は一番亡くなりやすい。二月、八月が亡くなりやすい。寒があけたんだけれど、あいかわらず寒さが続いて、献花などを待っている人の裾のあたりがすーすーと寒いという感じかもしれません。

春は曙ガレのランプの琥珀色

この句は字余りをうまく使った句ですね。「春は曙」とわざと字余りにしておいて、勿論、枕の草子の世界を背景に置きながら、まったりとした、落ち着いた時間の中で、ガレの不思議なアールヌーボーの琥珀色の色合いと温かさを一句にしている。とにもかくにも、「春は曙」と初五を字余りにして、ところで私は、清少納言が見たら喜ぶかもしれないような、これを味わっております。という句で、これも、なかなか上等な句ですね。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第6回 (平成17年2月18日 席題 梅・余寒)

靴揃へ脱ぎあり山の梅の茶屋

ちょっとごたごたしている。「山の梅の茶屋」のリズムがよくないんですけれど。梅見と花見の違いを、まずしっかり認識することで、梅見というのは花見より約一月早い分だけ、どこか寒々しかったり、着物の裾のあたりを風がひゅっと抜けるような。何か食べていても、落ち着いて酔っぱらうんではなくて、そそくさと引き揚げてしまう、そういう感じが、どこか梅見にはありますね。勿論、日暮れの時間も、梅見と花見では随分違うので、気分も大分違うんですね。そういうことをよく考えて梅見という句を作っていかないと、失敗してしまう。ちょっと寒々しい山の中腹に茶屋があって、そこに梅見客が来て、お行儀のいいお客さんで、ちゃんと靴が揃えて脱いであったというところに、静かな一時の一行の様子が見えてくると思いますね。ただ、冒頭に言ったように、「山の梅の茶屋」のリズムがすっきりとしていないうらみがあります。

白ブーツに素足の膝よ春隣

「春隣」は冬の季題です。「日脚伸ぶ」「待春」「春隣」とか、皆冬の季題です。まだ春になりきっていない、そろそろ春になるといいな、春が近いなという気分が「春隣」という季題です。「白ブーツに素足の膝よ」というのが、面白いですね。清潔な、健康な女の人の美しさ。美しいとも言えない、まだ子供のような膝小僧で、それが白いブーツをはいている。ファッションのこと、詳しくありませんが、ご婦人でも、白いブーツを履くのは、十代、せいぜい十六、七までくらい。そういうことを考えると、そんな感じの子の膝頭というものと、清々しいような、色気以前というような白さが見えて、面白いと思いました。

咲き初めし紅白梅や炭手前

ひじょうに仕上がりのよい句ですね。炭手前があって、雪見障子みたいなものがあるんでしょうかね。お茶室でなくて、お座敷みたいなところのお手前を想像したんですけれども。その庭先に紅白梅がもう咲き始めている。お客さまが、「もう梅が咲き始めましたね。」と言いながら、お手前が進んでいるという景色を想像させました。とにかく行儀がよくて、仕上がりがいい。これは一つの俳句ですね。新しく、新しくと思って、お行儀わるくしていく一派もいますけれど、それは違うんで、お行儀のいい方はお行儀のいい詠み方で、結構だと思いますね。

アパートに隣れる土手の草を焼く

面白いところを発見しました。本来なら、土手によって、田んぼか畑があった所に、無理矢理に町が広がってきて、アパートが建ってしまった。本当ならば、土手の方が主人公なのに、アパートの住人が「煙って匂いがついちゃうわ。」というような顔をして、見下ろしている人もいる。といった、新興の近郊ベッドタウンの一角。ぼつぼつとお百姓も住んでいるという景色も見えてきて、面白いと思いますね。

どつと客降りて下曾我梅の里

「下曾我梅の里」というのがしつこいようで、採らなかった人がいるかもしれないけれど、逆にこのことばにかけた感じが、あるリズム感を作っていると思いますね。「曾我神社曾我村役場梅の里」という高浜虚子の句がありましたね。曾我というのは小田原の近くで、大変地味な梅の里です。実梅を育てているところですから、熱海の梅林とか近年はやりの湯河原の梅林とかとは、違う感じがしますね。