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花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第6回 (平成17年2月18日 席題 梅・余寒)

靴揃へ脱ぎあり山の梅の茶屋

ちょっとごたごたしている。「山の梅の茶屋」のリズムがよくないんですけれど。梅見と花見の違いを、まずしっかり認識することで、梅見というのは花見より約一月早い分だけ、どこか寒々しかったり、着物の裾のあたりを風がひゅっと抜けるような。何か食べていても、落ち着いて酔っぱらうんではなくて、そそくさと引き揚げてしまう、そういう感じが、どこか梅見にはありますね。勿論、日暮れの時間も、梅見と花見では随分違うので、気分も大分違うんですね。そういうことをよく考えて梅見という句を作っていかないと、失敗してしまう。ちょっと寒々しい山の中腹に茶屋があって、そこに梅見客が来て、お行儀のいいお客さんで、ちゃんと靴が揃えて脱いであったというところに、静かな一時の一行の様子が見えてくると思いますね。ただ、冒頭に言ったように、「山の梅の茶屋」のリズムがすっきりとしていないうらみがあります。

白ブーツに素足の膝よ春隣

「春隣」は冬の季題です。「日脚伸ぶ」「待春」「春隣」とか、皆冬の季題です。まだ春になりきっていない、そろそろ春になるといいな、春が近いなという気分が「春隣」という季題です。「白ブーツに素足の膝よ」というのが、面白いですね。清潔な、健康な女の人の美しさ。美しいとも言えない、まだ子供のような膝小僧で、それが白いブーツをはいている。ファッションのこと、詳しくありませんが、ご婦人でも、白いブーツを履くのは、十代、せいぜい十六、七までくらい。そういうことを考えると、そんな感じの子の膝頭というものと、清々しいような、色気以前というような白さが見えて、面白いと思いました。

咲き初めし紅白梅や炭手前

ひじょうに仕上がりのよい句ですね。炭手前があって、雪見障子みたいなものがあるんでしょうかね。お茶室でなくて、お座敷みたいなところのお手前を想像したんですけれども。その庭先に紅白梅がもう咲き始めている。お客さまが、「もう梅が咲き始めましたね。」と言いながら、お手前が進んでいるという景色を想像させました。とにかく行儀がよくて、仕上がりがいい。これは一つの俳句ですね。新しく、新しくと思って、お行儀わるくしていく一派もいますけれど、それは違うんで、お行儀のいい方はお行儀のいい詠み方で、結構だと思いますね。

アパートに隣れる土手の草を焼く

面白いところを発見しました。本来なら、土手によって、田んぼか畑があった所に、無理矢理に町が広がってきて、アパートが建ってしまった。本当ならば、土手の方が主人公なのに、アパートの住人が「煙って匂いがついちゃうわ。」というような顔をして、見下ろしている人もいる。といった、新興の近郊ベッドタウンの一角。ぼつぼつとお百姓も住んでいるという景色も見えてきて、面白いと思いますね。

どつと客降りて下曾我梅の里

「下曾我梅の里」というのがしつこいようで、採らなかった人がいるかもしれないけれど、逆にこのことばにかけた感じが、あるリズム感を作っていると思いますね。「曾我神社曾我村役場梅の里」という高浜虚子の句がありましたね。曾我というのは小田原の近くで、大変地味な梅の里です。実梅を育てているところですから、熱海の梅林とか近年はやりの湯河原の梅林とかとは、違う感じがしますね。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第1回 (平成16年12月10日 席題 鰤・紙漉)

淋しきはビルの谷間の枯木立

勿論、季題は枯木立なんですが、枯木立というと、今流行りのことばで言うと里山とか、そういう所の木々。それがすっかり枯れて、十幹とか二十幹とか並んでいるという感じがするんですけれども、そういう自然の何百年も生え替わり、生まれ変わってきた木立と違って、ビルの谷間の枯木立というと、いかにも植えましたという感じ。小難しいことを言えば、きっと土地の建ぺい率があるんでしょう。高いビルを立てれば、必ずビルでない部分に公共の部分を作らないといけない。そうするといかにも植えましたといった木がある。そういういかにも人工の、持って来て植えましたというようなしらじらしさみたいなものが、この句にはありますね。「淋しきは」という打ち出し方は、ひじょうに主観的で、今まで採らなかった傾向とお思いかと思いますが、この句の場合には枯木立がいかにもその場にそぐわぬ、その冷涼たる気分は「淋しきは」と打ち出さないと言い切れないだろうと思います。

 

なじまない猫と住み居て漱石忌

勿論、賛同者が多かったので、よくおわかりと思いますが、「猫」と言えば、漱石忌ということになる。その猫がいつまでたっても主人に馴染まない。他の家族にはなつきながら、どうも俺にはなつかないぞ。可愛いと思いながら、どこか十全に満足しない。そんな主人公の漱石忌を迎えての気持ちがよく出ているなと思いました。

 

村のバス朝夕二本紙を漉く

席題の句の優等生の方向の句ですね。この句が今までなかったかというと、なくはないと思うんですが、席題を与えられた時に、自分の想をこういう方向で広げていくということは、一つだと思うんです。つまり、紙を漉くというのは、どういう所か。離れた所なんだよな。人があまり来ないような里なんだよな。とか、そうするとバスが二本しか来ないとか、段々想が発展してきますね。そうすると空想でなくて、長い人生の中でそういう所はこうだよということが出てくるわけですね。その世界へ自分を旅させていく。題詠の面白さは、自分の過去のさまざまの見た事や、聞いたことや、テレビの映像で見た世界に、ふーっと入り込んでいって、そこで見聞をしてくる。そういう時に「村のバス(後略)」の方向で、どうぞ想を練っていって下さい。そういう顕彰の意味で、採りました。

 

小春日の煙にむせて泉岳寺

元の句、「小春日や」。「や」で切ってしまうと、この句の狙いがはずれてしまうかもしれませんね。さっきも言ったんですが、そろそろ十二月十四日だ。という気持ちで、今日はいい天気だ。あの時の、ま、あの時の十二月は西暦の二月頃になるんですが、雪の降った日なんですが、そんな雪の泉岳寺の朝を想の片隅に置きながら、今日の小春日和をめでている。なるほど、泉岳寺というのは、日本の寺の中でも、煙の多いお寺ですね。