花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第52回 (平成17年12月9日 席題 火事・枯茨)

枯茨鋭き棘と真赤な実

題詠の時の作り方というのは、ともかくも素直に自分の記憶の中にある、そのものを思い出して、そのディテールというんですか。できるだけ思い出して作っていくというのが、大切ですね。その作業は結局、本物を見た時によく見るようになる。句を作る機会でもある一方、次の本物に出会った時の心構えを鍛えるので、題詠というのは必要ですね。句として見ると、掲句は平凡のように見えた方があるかもしれないけれど、平凡な部分もあるが、これはよく見ています。きちっと誠実な写生が出来ていると思って、この句はいただきました。

忙しく立ち回りをる焚火かな

これも潤いのある句ですね。「焚火」が冬の季題なんですが、焚火なんていかにものんびりと、暇な人がやっているように見えるんだけれども、性格があって、細かく掃き寄せては、火を着けて、火の着いたところと着いていないところと、細かく分ける人。すぐに如雨露に水を汲んでみるとか、性格によってせわしく立ち回る人もいるんですね。なるほど同じ焚火でも、いろんな性格があって、どうも忙しい人らしくて、動き回って焚火をやっている。焚火の煙は、その人の動きとは別に、のんびりと、ぷわーっと上に上がっている。そんな焚火を描きながら、人間が描けていると思いましたね。

スーパーで娘と出会ひ日短か

この句は、経験そのものを句になさったんだろうけれど、自ずからそこに現代風景といったものが、あると思いますね。「出会ひ」というのだから、同居している娘ではない。別居している娘ですから、どこかの家に嫁した娘でしょう。昔の男性社会でいくと、大体嫁いだ先は、男性が決めるわけで、男性の職場に近いとか、縁あって輿入れをすれば、遠くに住むことも多かったんだけれども、現代社会的な通念では、奥さんの里の近くで、スープの冷めない位が、一番よろしいということになっている。そうなると、掲句は、いかにもありそうな現代の家族、現代の娘と母という感じがよく出ているな。しかも、そのことを一言も説明っぽく言わないで、事実だけ。いかにも忙しい、ちょっとした時間に買い物をしているという感じがあって、いい句だと思います。

干柿の後ろの棹に濯ぎもの

こうやってみると、干柿が二階の一番前の軒下に出ていて、その後ろに濯ぎものがある。干柿の影が濯ぎものに波に映っている。そんなことまで想像されて、楽しい句だなと思いました。

枯茨潮風に実の落ちにけり

これも先ほど言ったように、心を澄まして題詠をしていったら、自ずから海辺の景色を思い出して、赤い茨の実がぽろっと磯原に落ちていた景を思い出されたんでしょう。それを誠実に写生なさったということで、いいと思います。 前にもお話したと思いますが、正岡子規という人は、題詠をあまり評価しなかった。とにかく手帳に書き付けて、ものを見よ。ということを言ったんですね。勿論、当時ですから、題詠が多かったんですが、それでも、実際に見ることをひじょうに重んじた人です。子規が三十五歳で死んでしまったから、嘱目を長く続けてきた人が、題詠と出会った時に嘱目と同じような写生ができるということは、わからなかったんですね。虚子は八十五まで生きたから、それがわかった。虚子の題詠の句はひじょうにリアリティーがあります。つまり写生の技術を身につけることで、題詠の時の写生が出来るようになった。そういう点で、今日のお句はいい句が多かったと思います。態度は写生的であって、でも自分の記憶を誠実に辿っていく。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第5回 (平成16年12月10日 席題 鰤・紙漉)

漉く紙に紅葉黄葉と散らしけり

元の句、「紅葉黄葉を散らしけり」。これでは理屈。「を」では、紅い葉も黄色い葉も、どちらも「もみぢ」ということに興じすぎている。「紅葉黄葉と」だと、「赤いの入れたから、もう一つは黄色いのを入れましょうか。」というような慮りが、その句の中に見えてくる。だから、これは「を」ではなく、「と」なんだろうと思う。

 

紙を漉く部屋の空気の澄みわたる

これ、ここ(句会場)へ来て、(席題で)作ったんですよね。(感心)干すのは、太陽の光に干したり、鉄板に干したり、いろんな干し方がある。だけれど、漉くのはどうしたって寒い寒い部屋で、水がじゃぶじゃぶじゃぶじゃぶ流れてる所でやっていたんですね。そこの空気が澄みわたっているというのは、なるほど、そういう捉え方があるなと思って、感心しました。

 

鳴り出せる笛吹ケトル日短か

これもいいですね。何か忙しい感じがして、ピーポーといってくる。そんな笛吹ケトルなんて洒落た道具立を持ってきながら、「日短か」は、本当に僕たちに迫ってくるものがあると思います。

 

隠し湯に深傷を負うて冬至粥

この深傷っていうのね。ここでも話したことがあると思うけれど、俳句の中には詠史の句、歴史を詠む句があっていいと思っています。かつてはありました。近年、あまりにもそういうゆとりがなくて、写生、写生とか、人生、人生とか、環境、環境っていう句ばかりで、よわったものだと思っています。これなんか、信玄の隠し湯みたいなものに行って、あたかも信玄かなにかが、深傷を負って、その湯で湯治をして、ちょうど冬至に近かったので、冬至粥を召されているという、歴史の一齣を再現してくれた詠史の句として見たら、すごく面白いと思いますね。しかも秋口に戦いがあったんでしょう。それで深傷を負って、引き上げたんだけれど、けっこう傷の本復が長引いて、冬至になってしまった。「来年はどうすればよろしいかのー。」と家臣に訊いているような大将の姿が見えてくる。俳句の豊饒の舞台というものを、こういう句が広げていくのだろうと、ありがたく思います。

 

柚子の実の一つ一つの陽を受けて

元の句、「柚子の実や一つ一つが陽を受けて」。説明っぽいのね。「柚子の実や」っていうと、柚子の実がそんなに大事か。みかんの実だって、一つ一ついきますよという反論が出てきそう。今の若者のことばでいうと、「素」。そのままで、上々の景としてどう?と、「うん。」と見た方も喜ぶという世界の句ですね。だから、「や」とか切っていく必要はないんで、掲句のようにして、「の」を重ねることによって、丸々とした柚子が見えてくる。「一つ一つが」とすると、「が」が濁音だし、ちょっと理詰めっぽくなりますね。掲句のようにすると、やさしく、ほわーっとぼかした黄色い図柄が出てくるように思います。

 

鰤揚がる海にさし来し日の矢かな

これ、日本海の景色をご存知の句ですね。この頃の日本海は日の矢が差したと思うと、一瞬にして曇って、霰が降ってくる。そんな時が、ちょうど鰤が獲れる季節です。その日本海の景をよくご存知で、こういう句と出会うと、ああ日本広し。それをまた楽しむことも、よろしいなと思います。

席題で苦労なさることは、とても大切です。絵空事で作ったのが何になるとお思いでしたら、そうではない。席題で苦労するということが、「鰤」って何だろう。どうやってきたのだろうといったことを考えます。そうすると、記憶の中に分け入っていきながら、記憶の中で写生するんですけれども、そういうことが次に鰤を見た時に、あるいは紙漉きを見た時に、ああ、こうなるんだ。という興味が僕たちを結び付けてくれる。俳句というのは、作っていない時にも上達する。作っていなくても、ものを見ていますから。俳人としてものを見ていると、紙の漉き方はなるほどな。こうだな。ああだな。すると興味がいっそう深まるし、定着していく。そして、こういう場で題詠で作る。それの繰り返しですね。それが、季題と仲良くなっていくことだし、季題と仲良くなっていくということが、この造化という神の営みに、僕たちが一歩一歩近づいていくことです。

乾坤ということばがありますね。天と地といってもいいですが、乾坤への愛っていいますかね。それは天候の句、あるいは地形の句などもありましたね。地形は坤ですね。天地人とも言います。天に対すること。地に対する興味、人に対する興味が一層深くなってくる。人生的には大先輩の前で、口幅ったい事を申し上げかねますけれども、そういうことで人生の一齣一齣をより細かく、乾坤と結びついていくことが、人生を豊かにしてくれる。出来た作品が勿論大切なんだけれども、その作品を作っていく様々なプロセスが、全部僕たちにとって有効なんだろうという気がします。席題の句は、正攻法に作るべきなんですね。僕が採らなくても構わない。正攻法に作っていく中で、人様の作った句と出会う。それも大変大事なことだと思います。ともかくも、作っていない間も、俳句はうまくなるということを、心に留めていただけたらと思います。

(平成16年12月10日の稿、以上)