花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第33回 (平成17年7月8日 席題 川床・金魚)

消えかけて又濃くなりし朝の虹
外に賛同者がいなくって、ちょっと平凡にお感じになったんだと思いますが、夕虹と朝虹の違いがよく出てますね。大体、虹が出るのは夕方が多い。夕方の方が空を見てる人が多いということもありますが…。朝の虹というのは、その日の天候を左右しますね。「あ、今日、天気わるいのかな」。朝虹が立つというのは、水蒸気がたくさんあるから。それがふっと消えて、日が上るとまた濃くなった。という、その日の、ちょっと不吉な感じもしてくると思います。虹というのは、日本文学の中にはないんですね。西洋では虹、レインボーは大体幸せになったりするんだけれども、日本の物語に、虹が出てくる場面はない。それは虫偏であるのでわかるように、ひじょうに忌み嫌うというか、不吉なものとして、見て見ぬふりをしてきた。お公家さんの日記なんかには、出てくることはあるんだけれども、文学として、例えば源氏物語なんて、あんな壮大な長いロマンの中に、虹の場面はない。雪、時雨の場面とか、「雨夜の品さだめ」の梅雨の場面とか、いろんな天候、気象が出てくるのに、虹はない。それだけ、禍々しい(まがまがしい)ものなんですね。それを考えると、朝虹は夕虹よりずっと禍々しい感じがしますから、面白いなと感じました。
暮れきらぬ川面眺めて川床料理
いかにも、鴨川あたりのゆったりとしつらえた川床。そこに鮎を中心にして、夏料理が運ばれてくるという感じがよくわかります。ただ、元の句、「暮れ遅き」とやってしまうと、「暮れ遅し」という春の季題がありますから、気が散ってしまって、もったいない。掲句のようにすると、東京あたりからきた僕らみたいなお上りさんでしょうね。日の明るさが残っているんだけれども、もう川床料理を食べ始めている。といった、観光客は早々と行くし、日暮れの遅い川床だから、始まったばかりの川床だという感じがしますね。これが八月の終わり頃になってくると、暮れがすごく早くなってきますから。
蒲の穂の中に潜みてカメラかな
へんな句だなあと。バードウォッチングかなにかでね。ひそむに「秘」という字が書いてあったけれど、潜水の「潜」を書くべきでしょうね。蒲の穂の林立しているところに、そーっと入っていって、何か撮っている人がいた。ま、水鳥の巣とか、浮巣とか、そんなものを撮る時に、こういう場面がありますね。
金魚の尾閉ぢて広がり朱を揺らし
この「閉ぢて広がり」はうまかったですね。よく見ていらっしゃるなと感心しました。一回、ひゅーっと尾が腹から狭くなっていって、きゅっとつぼんで、もう一回ふわっと広がる。やすい金魚でなくて、立派な金魚。ただ、この句、もったいなかったのは、下五でしたね。せめて「朱の揺るる」ぐらいにして、自動詞にした方が、ゆったりとした気分が出てくる。「朱を揺らし」とすると、刺激が出てくるから、そこに理屈が出てくる。こうやって鑑賞してというメッセージが入ってしまう。「朱の揺るる」となさった方がいいです。
打水の匂ひ運びて風通
これは大変、人気があったので、私が付け加えることもありませんが…。これも俳句表現に手擦れていない感じがあっていいですね。例えば、これを僕が作ると、「(前略)風通ふ」にしてしまう。それは駄目なんで、これは「風通る」だから面白い。「風が通らないわね。むしむしするわね。」匂いますから、庭に土とか、アスファルトの部分もあったんでしょう。その庭先に水を打ったら、「ほらほら風が通った。」というので、「風が通る」というのが大事で、「風通ふ」では、きれい過ぎて、生な気分は出てこない。これはすえ子さんの手擦れていないよさが出ているなと思って、感心しました。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第32回 (平成17年7月8日 席題 川床・金魚)

先立っての一言

今日は全体的に理屈っぽい句が多かったですね。理屈っぽいというより、こう言わんとしてますから、誤解のなきように。というメッセージが入っている句がありました。それは、損ですね。俳句の時はね。句が自由に楽しめなくなる。メッセージ性はどうしても入ります。それを消す技術をお磨きになる必要があります。今日、ふるわなかった方は胸に手を当ててみると、「あ、なるほど。言わんとすることを、読者に誤解するなよと、ひと味付けてしまったな。」ということがあって、それを悉く採らぬ親切をさせていただきました。

下塗りのペンキ白々梅雨長し
下塗りのペンキですから、その後でまた上塗りをするようなことでしょう。具体的にどうということはわからないんですが…。その白々としたペンキをみるにつけ、「どうも今年の梅雨は長いなあ。」と思ってをるということですね。理屈を言ってしまえば、梅雨に入る時の風を「黒南風」、梅雨が終わる時の風を「白南風」。「はえ」は南風。漁師ことばです。沖縄に行くと、南風のことを、「ぱえのかじ」。沖縄と共通していることばというのは、すごく古いことばだということがわかります。本土方言と琉球方言は日本の二大方言。琉球方言に残っているというのは、古い。白と黒の対比が梅雨にあるということを、どこかで印象にあると、「梅雨長し」に「ペンキ白々」というのは、なるほど、そんな気分があるなあと。理屈ではなく、気分。
とりあへずサラダボウルに金魚入れ
これ、いい句ですね。そのままお作りになったんでしょうけれど、この句の面白さは、状況がよくわかりますね。自分で金魚を買おうと思って、出掛けていったら、こんなことにはならない。当然、金魚鉢も一緒に買うとか。偶然、誰か訪ねてきた人とか、家族の子供が、金魚買っちゃった。と言って、やってきて、そんな狭いビニール袋に入れていたら、かわいそうだから、ともかくこっちに入れてあげなさい。と言って、台所からサラダボウルを持ってきて、金魚を入れた。さ、鉢は後から考えよう。ということで、誰か思わず持って来た人 がいて、それに対応しているというのが、よくわかる。そこまで作者は言うつもりはなかったかもしれないけれど、これは先ほど、冒頭に言った、メッセージ性はないんだけれども、突然に金魚を持ってきた人がいるということが、わかりますね。面白いと思いますね。
涼しさや鶯張りを磨きあげ
鶯張りはあちこちにありますね。二条城は有名かもしれないけれど。たしか日光の東照宮にもありましたね。あるいは禅寺、大徳寺などにもありますね。もともとはお武家さんとか高貴な人に刺客が来ないように、鶯張りにしたというんだけれど、お武家さんの刃傷沙汰の時代の建物を、何百年も磨きあげている。今はそんなことのない平和な時代なんだけれども、相変わらず磨きあげてあるという、時代の流れがよく見えてきて、面白いと思いました。
頬を寄せ合うて二つの実梅かな
頬を寄せ合っているような実梅が二つあったということなんだけれど、「頬を寄せ合うて実梅の二つかな」とした方が、まわりが見えていないで、そこだけ二つぱっと見える。「二つの実梅かな」とすると、説明くささが出てしまう。じゃ、三つなら、四つならどうするんだとなってしまう。「実梅」ってむずかしい季題で、「実梅」と「青梅」と同じように歳時記で、説明してしまったんだけれど、あれは書き換えないといけないと、最近は思っています。「実梅」はやや黄熟しかけた梅を、実梅とすべきだと、今年気がつきました。だから、この句もそういうふうに、解釈させてもらいたいと思います。
川風を足裏に受けて床涼み
いい句ですね。ストッキングを脱いでしまったのか、普段足の裏に風を当てないけれど、なるほど貴船辺りの川床に行って、ぶらっと足を垂らすと、足裏に風がきます。そんなくつろいだ感じがよく出ていると思いましたね。