花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第55回 (平成17年12月9日 席題 火事・枯茨)

類焼をまぬがれし家ひそとあり

「ひそとあり」がいいですね。類焼を免れたんだから、よかったんだけれども、隣近所が燃えてしまって、その家だけ燃えていない。ご近所付き合いもなくなってしまって、燃えなかったんだけれど、気持ちはげっそり疲弊してしまって、 笑い声も聞こえてこない。といったような、火事と言うものの持っている、恐ろしい一面をよく表している句だと思いますね。

山盛を足で抑へて落葉籠

面白いですね。これはいかにも形がね、落葉籠の上に足を載せて抑えている、園丁の姿が、人間の姿がよく見えて、うまい句ですね。

菓子職人(パティシエ)の頬少し痩け十二月

たいへん流行っているお菓子屋さんで、一生懸命働いて、人のいい職人が十二月なんで一生懸命お菓子を作っている。なんか気のせいか、頬がすこし痩けて見えた。というところに、菓子職人への愛情があると思いますね。

粕汁や形見となりし合鹿椀(ごうろくわん)

合鹿椀というものを、よく存じません。ただ粕汁が入るということで、何となく民芸風のものなのかなと思います。粕汁に向いているようなもの、それを形見として、私が今使っている。故人がそれをすすっている時の姿も思い出されたということでしょう。

出荷待つポインセチアの鎮まれり

これ、うまかったですね。ポインセチアの鉢って、一個あると燃え立つようで、派手で、いいなと思うけれど、これはうわーっと並べて出荷を待っていると、逆に一つ一つは鎮まっているような、発散しないような、そんな感じがしてきますね。微妙な気分が伝わってきて、いい句だと思いました。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第4回 (平成16年12月10日 席題 鰤・紙漉)

大漁の鰤丸々と肥えてをり

これも、まっとうな写生の仕方で、こういう句からどんどん想を練っていかれると、その時の鰤はこうであったということが、段々発展していくんだと思います。

 

漆黒の闇鰤起し鋭くひかる

「漆黒の闇」とまでおっしゃったところに、いわゆる日本海、金沢とか富山とか、そういう所の海というものは、なお一層濃い闇であるよ。と想像させるような所ですね。鰤起しというのは、実は季節風が強く吹くと、これは僕の想像なんですが、富山湾なんかでいうと、沖へ帰る風が強いですから、鰤の回遊コースが陸寄りになるんですね。定置網の距離の所に入ってくるので、北風が強くって、雷がゴロゴロゴロと鳴るようなことを「鰤起し」というんだけれど、そういう風の時にほど、鰤が網によくかかる。ただ、そういう時は一番危険で、起しに行った漁師がよく遭難するんですが、富山では特に鰤がないと、正月になりませんから、そんなことになるんだろうと思いますね。

 

気持まず走り始めて十二月

これもいい句ですね。師走ということばを、どっかに感じさせながら、気持ちが走っていて、まだ十二月、そんな深くないんだから、そんなに焦ることはないんだけれど、なんか気持ちが焦っている。というのを、「走り始めて」というのが、うまい言い方だなと思って、感心いたしました。

 

灯りける路次に鍋の香漂へる

元の句、「漂ひぬ」。完了の「ぬ」だと、一過性の感じがしてきますね。「漂へる」というと、ずっと漂っていたということになる。この句の面白いのは、「灯りける」というところ。それまで点いていなかった路次に、割合日暮れが早くって、灯がぽっとついた瞬間に、ぱっとその路次が、路次として浮かび上がる。その時に、本当は香っていたはずの鍋の香りが、一層、どこかの店で鍋をやっているなという感じがする。ぽっと灯った瞬間に、実は香りまでが、その場に登場してくるという解釈をしたんです。その為にも、「漂へる」となさった方がいいと思います。

 

紙を漉く手赤く息の白々と

元の句「手赤し息は白々と」。「赤し」で切ってしまうと、「息は白々と」がどっかにいってしまう。「手赤く息の白々と」というと、赤と白のコントラスト。元のようだと、ばらばらになってしまう。その辺も、助詞の使い方を工夫なさって、俳句は「切る」か「付けるか」で、勝負がつきますからね。意識してなさるのがいいと思いますね。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第1回 (平成16年12月10日 席題 鰤・紙漉)

淋しきはビルの谷間の枯木立

勿論、季題は枯木立なんですが、枯木立というと、今流行りのことばで言うと里山とか、そういう所の木々。それがすっかり枯れて、十幹とか二十幹とか並んでいるという感じがするんですけれども、そういう自然の何百年も生え替わり、生まれ変わってきた木立と違って、ビルの谷間の枯木立というと、いかにも植えましたという感じ。小難しいことを言えば、きっと土地の建ぺい率があるんでしょう。高いビルを立てれば、必ずビルでない部分に公共の部分を作らないといけない。そうするといかにも植えましたといった木がある。そういういかにも人工の、持って来て植えましたというようなしらじらしさみたいなものが、この句にはありますね。「淋しきは」という打ち出し方は、ひじょうに主観的で、今まで採らなかった傾向とお思いかと思いますが、この句の場合には枯木立がいかにもその場にそぐわぬ、その冷涼たる気分は「淋しきは」と打ち出さないと言い切れないだろうと思います。

 

なじまない猫と住み居て漱石忌

勿論、賛同者が多かったので、よくおわかりと思いますが、「猫」と言えば、漱石忌ということになる。その猫がいつまでたっても主人に馴染まない。他の家族にはなつきながら、どうも俺にはなつかないぞ。可愛いと思いながら、どこか十全に満足しない。そんな主人公の漱石忌を迎えての気持ちがよく出ているなと思いました。

 

村のバス朝夕二本紙を漉く

席題の句の優等生の方向の句ですね。この句が今までなかったかというと、なくはないと思うんですが、席題を与えられた時に、自分の想をこういう方向で広げていくということは、一つだと思うんです。つまり、紙を漉くというのは、どういう所か。離れた所なんだよな。人があまり来ないような里なんだよな。とか、そうするとバスが二本しか来ないとか、段々想が発展してきますね。そうすると空想でなくて、長い人生の中でそういう所はこうだよということが出てくるわけですね。その世界へ自分を旅させていく。題詠の面白さは、自分の過去のさまざまの見た事や、聞いたことや、テレビの映像で見た世界に、ふーっと入り込んでいって、そこで見聞をしてくる。そういう時に「村のバス(後略)」の方向で、どうぞ想を練っていって下さい。そういう顕彰の意味で、採りました。

 

小春日の煙にむせて泉岳寺

元の句、「小春日や」。「や」で切ってしまうと、この句の狙いがはずれてしまうかもしれませんね。さっきも言ったんですが、そろそろ十二月十四日だ。という気持ちで、今日はいい天気だ。あの時の、ま、あの時の十二月は西暦の二月頃になるんですが、雪の降った日なんですが、そんな雪の泉岳寺の朝を想の片隅に置きながら、今日の小春日和をめでている。なるほど、泉岳寺というのは、日本の寺の中でも、煙の多いお寺ですね。