花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第11回 (平成17年3月11日 席題 御水取(お松明)・アスパラガス)

蕗のとう包みてくるる指の荒れ

いわゆる生産者市場でも構わないし、もっと農家そのものでもいいんだけれど、「蕗の薹、持って帰んなよ。」と言って、新聞紙にざくざくっと、二、三十個包んでくれた。その音が、がさがさといいながら包んでいる包み方を見ていると、その指が全部荒れて、からからに乾いて罅が入って、土が細かいところまで染まっているような、そんな太い指だった。という句ですが、「指の荒れ」というところがむずかしいですね。そういうと、「指の荒れ」が包んでくれるようになってしまう。「蕗の薹を包んでくれる指」で切って、その指が荒れていると言わなければいけないんだけれど、表現として飛躍というよりは、ふつつかですね。何とかしたいところなんだけれど、短時間にこう言ったらという提案を、うまく練りきれませんでした。

 トランプの恋占ひや春の風邪

 いかにも春の風邪らしい。熱があるわけでもないけれど、ぐずぐずとしてをる。思春期の少女でしょうね。今日は風邪だからと言って、ガウンをまといながら、ベッドに入らずにいる。それがトランプの恋占いかなにかをしている。と言った風情で、まことに「春の風邪」という季題趣味に寄り添った句だと思います。ただし、こういった句がこれまでに無かったかと言えば、世の中にあったかもしれません。ただ毎回言っているように、あったからと言って、正しい作り方をしていれば、採るというのが私のやり方です。

 

あお向けに寝て鼻先に寒さあり

さあ、この句は大変人気があった句でいいんですけれども、「余寒」というのは、寒があけて春になったのに、そぞろ背中が寒くなるような不愉快な寒さを余寒。(元の句、「余寒あり」)この句の場合には、「おお、寒い寒い。」といって、寝た後、この場合、ベッドでなくて、畳なんですね。それも、家族が温めておいた部屋でなくて、一人で帰ってきて、あるいは自分の家でなくてもいいんですが、ふとんが敷いてあって、とにかく寝てしまおうと寝たところが、空気が冷えていて、鼻先あたりがその空気の高さがまだ寒い。「余寒」というと、「一旦暖かくなったのに、またね。」ということ。この句の中心は、鼻先が寒い。低いですからね。畳の高さは。「余寒」というと、この句の焦点がぼけてしまう。だから、実際は余寒だったろうけれど、句としては、掲句のようにするといいと思いますね。ちなみに、最近のある大結社の流行は、「鼻先にある寒さ」と下五に動詞の連体形に名詞がつくというのをやっていますね。病気のように。

歯ごたへを残し茹であげ松葉独活

元の句、「茹で上ぐ」。これだと、終止形になって、いっぺんこれで切れる。「茹であぐ」というと、「松葉独活とはそんなものであるよ。」「茹であげ」というと、ポーズはあるんだけれども、意味が違う。「はい、こうして茹であげましたところの」という、連用形のよさですね。連用中止法というんですが、一旦軽く止める。この場合には、「茹であげ」と言った方が、いかにも湯気がほわほわっと、この場合、グリーンアスパラだと思うんですが、アスパラの感じが見えてくると思います。くたくたっとならない…。

日々かくも寒きまゝ梅咲き残り

この作者の一つの境地に、一つステップアップなさったと思いますね。もともと、いろいろ内蔵していらっしゃる方なんだけれど、こういう句作りをできるようになったということは、ここで大きく段を上ったなという気がして、嬉しく思いました。この句は厳密に言えば、季重ねです。「寒さ」という季題と「梅咲き残る」という季題。勿論、この句は「梅咲き残る」という「梅」が季題なんですけれども。「寒い日が毎日、毎日だけども。ああ、梅が残ってるな。」それだけれども、理屈になっていない。この句と出会えて、今日は嬉しゅうございました。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第10回 (平成17年2月18日 席題 梅・余寒)

解体のビルの大穴冬の晴

この句、すごく面白かったですね。どこかちょっとしたビルから隣の解体のビルを見たら、囲っている下が異様に空いていて、はは、そのことなんだということに気がついた。常識とか先入観をとり払って、言われてみればそういうことなんだよな。持ってくる季題が、「冬の晴」というのが、面白かったですね。「炎天」とかでは、辛くなってしまうし、「うららか」では、ビルは大きな穴の感じはしないし、「冬の晴」という感じが確かに面白いと思いますね。

今日の酒辛し白魚ほの甘し

元の句、「今日の酒辛く白魚ほの甘き」。「辛く」とすると、説明っぽくなってしまう。「辛く」だと、「今日の酒。」では「昨日の酒は?」となってしまう。いやなことがあって、「今日の酒は辛いな。でも、白魚が甘いから、まあいいか」という感じがする。「今日の酒辛く」にすると、「昨日の酒、一昨日の酒」が連想される。いいようだけれども、「白魚」が目に見えてこない。一中さんの心持ちは表に出るけれども、白魚がかすんでしまう。俳句は季題が表に出ないといけないから、「今日の酒辛し白魚ほの甘し」とした方が、白魚が生きますね。

早茹での菊菜の皿の青さかな

「菊菜」、「春菊」ですね。春菊というのは、匂いも強いし、色も若干がさつで、たとえば水菜などに比べると、一等位が低いと僕などは思っているんだけれども、でも、その春菊の皿が青々と見えたというのは面白いなと思います。香りの強さ、色の強さ、春菊の力強さがあっていいですね。

残寒に句友また一人帰らざる (訃報届く)

「句友また一人」、この字余りはいいんです。これが五・七・五ですっと行ったら、つらい思いは伝わりませんですね。わざわざ中七を字余りになさったことで、亡くなった方への哀惜の念が強くなると思いますね。

湧き水の湧き口あたり落椿

元の句、「湧き水の湧き口に浮く」。これね、皆さん、たくさん採っていらしたけれど、本当にそうかしらね。湧き水の湧き口に浮いていられるかしら。流れちゃうでしょう。だから湧き口には浮いていないんですよ。湧き口近くに引っかかっている。物理的に大変むずかしい状況だけれど、「湧き水の湧き口あたり」とすれば、湧き口のところに水が湧いているけれども、何かの事情で引っかかった落ち椿が浮いてをったという景になるんですね。俳句は嘘は困る。作者が嘘をついているというわけではないけれど、表現がまずくて嘘になってしまう。これはまずい。

賑やかに梅見の人等旗立てて

元の句、「梅見の一団」。この字余りはよくない。しかもこの「の」が説明っぽくしている。旗を立てているんだから、おのずから一団でしょう。そしたら、人等でいい。「一団」ていうのは、屋上屋を重ねた表現になってしまう。普通の人達ではないな。00歩こう会とか、X X 老人会だなと。そうすると、しみじみとした梅見ではなくて、ちょっとしゃべりながら歩いての梅見。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第9回 (平成17年2月18日 席題 梅・余寒)

梅林の海に落ち込む海の色

「海に落ち込む海の色」というこのレフレインがちょっと面白いです。海の色は勿論青々としているのだろうと思われます。

裏道を辿るすなはち梅辿る

「すなはち」というところなどは、なかなか技術が身についてきていますね。裏道は日陰なんでしょうね。日陰の裏道に梅が植えてあって、その梅の白さと香りを楽しみながら歩いている。そんな感じがしました。勿論、皆さんお採りになったのは、「辿る」ということばの繰り返しの中に、ある春先の心躍りも無くはないという気がしました。

人降りて葦刈舟の揺れやまず

この句は不思議な句なんです。季題は「葦刈舟」なんで、今時よりもずっと何ヶ月か前の、葦刈りの季節になるわけです。冬場、初冬になって、枯れた葦を葦刈にして、いろいろ使うんでしょう。その葦刈舟がこの句の場合、刈った葦を載せてきた舟から、葦を取り上げてをったらば、その間、葦刈舟がもやいに繋がれながら、渡舟場というかな、ポンツーというかな、で揺れてをったという解釈が普通だと思います。ただ、この句、いろいろな解釈が出来て、葦刈舟を三十センチ位の深さのところまで引き込んでおいて、水の中に降りて葦を刈っているという場面もありうるんで、それはそれで面白いと思います。ただ、その場合、「揺れやまず」がすこし大袈裟というか落ち着かないんで、場面としてはずっと面白いんだけれども、冒頭に申し上げたような解釈の方が真っ当であると思います。

松手入来園客に目もくれず

元の句、「松手入来園の者に目もくれず」。この字余りは致命的ですね。ことに、「来園の」の「の」が説明くさい。たどたどしい。この「松手入」は秋の季題ですから、そのつもりで、秋の空気の澄明さを背景に考えながら、この句を味合わないと間違ってしまいますね。「松手入」は床屋さんのような手つきでやる、独特なんですね。

梅見客一駅ごとに降りてゆく

元の句、「(前略)降りてゆき」。この止め方だと、軽過ぎますね。いつも言うことだけれど、そういうことに気がついた自分が見えてしまう。俳句に詠まれた景が読者に伝わるべきであって、俳句を詠んでいる人の顔が読者に伝わっては失敗です。「降りてゆき」だと、そういうことに気がついた私って、観察力があるでしょと言っていることになってしまう。「ゆき」が軽過ぎて、しかも作者の顔が見えて、この句は損をします。「降りてゆく」とそのままに詠んだ方がいいと思いますね。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第8回 (平成17年2月18日 席題 梅・余寒)

くぐり戸の扉だけ新し梅日和

元句の字使い、「戸だけ新し」。くぐり戸の「戸」はこれでいいですが、次の「と」は「扉」と書いた方がよくわかる。そうすると、景がよくわかる。しもた屋みたいなもののくぐり戸でもいいし、小さい庭園のくぐり戸でもいい。ともかく、柵がしてあるんだけれども、そこだけが、五尺くらいの高さの扉。細かく、細かく手入れしているのがわかって、敷松葉がしてあったり、松にこもが巻いてあったりとか、よく手入れしているお庭だなということが、よくわかりますね。

異人館北野天神春時雨

北野天神のまわりに、そんなものがあるか知りません。異人館というと、よく長崎とかにあるようなものなんだけれども、北野天神のそばにもあるよと言われれば、古都京都に、そんな不思議な一角があって、そこに何でも楽しむ観光客が来ておった。たまさかそこに春時雨にあった。京都は進取の気風があって、ある京都の感じが出ているかなと思いました。あの町は新しいものが多いですね。そういう感じがしました。

林檎むき独り食べゐる余寒かな

この場合、余寒という季題から発想していって、素直に出てくるような句ではない。林檎を食べることと、余寒と、お互いどう関係があるかと言われると、困ってしまうんだけれど、何か秋のうちからあった林檎、もうそろそろおしまいなんだけれども、食べてみたいなと思って食べてみたら、口にひやっとした。あ、余寒だよねという感じがした。ということなんだろうと思います。

紅梅の色見えて来し夜明かな

白梅の色はもう見えているんですね。白梅の色合いは、白加賀だの何だのあって、白さにも様々ありますが、紅梅の紅の様々ほどの差はない。白梅はもう見えているんですが、そろそろ日の出が近くなってくると、紅梅の紅の濃淡も見えてきたよということで、面白い時間帯を詠んでいらっしゃるなと思いました。

暁の梅に潜める烏かな

これも不思議な句で、事実だって言えば、事実なんですが、烏は無頼な奴で、何するかわからない。たまさか今日は梅の方にいたよ。というので、烏の所が黒いシルエットになって、暁ですからね。烏のところが真っ黒に抜けてしまって、あたりはうすうす明るくなりつつあるという面白い句だと思いますね。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第7回 (平成17年2月18日 席題 梅・余寒)

ろうそくを立ててかまくら完成す

たしか去年の今頃、「かまくら」という席題で、皆さん作って、僕もかまくらの句で遊ばせていただいた記憶があるんですが、この句はこの句でよく出来てますね。しかも昔ながらに子供が作ったかまくらではなくって、観光協会とか、そんな町の大人が、いくつもいくつも作って、「さあ、これで出来上がりだ。」というところに、子供がやってきて、水神様を祀る。そんな感じがあって、大人の作った感じが、「かまくら完成す」というリズムですね。「ろうそくを立ててかまくらできあがる」とか「できあがり」というと、子供が作ったような感じがありますが、「完成す」と言われると、町の青年団かなにかが、子供に代わって作っているような、そんな感じがあって、面白いと思いました。

風止んで梅見日和と云ふべかり

これは実に俳句の骨法を心得た作り方。風がひゅーひゅー吹いているうちは、梅はきれいであるんだけれど、心が落ち着かなかった。昼頃から、風が止んでみたらば、マフラーが邪魔なくらいの感じがしてきた。「ああ、これが本当の梅見日和かしらね。梅にあっている。」ちょっと手前勝手な句ですけれどね。本当は寒いのが、梅見日和で、ほの暖かくなったら、花見日和みたいになるんですけれど、そこは人間の心理で、面白いと思いましたね。午前中の風のある時から、昼頃、ぱたっと風が止んだ、そのタイムスパンが見えてくる、そこが面白いと思いました。

梅見頃臨時改札山の駅

ようく目の届いた句でいいですね。梅の頃になって、ある山の駅に臨時改札ができる。普段の改札口は、集落の方に一つあるきり。上りで降りようが、下りで降りようが、一本のホームをずっと片方の方へ行って、そこから出る。梅林は丘がかった所にあって、梅林へ行くお客にとって、一旦、集落の方へ行って改札を通って、また道の方へ行くなんていやなこったというような人がたくさんいるんで、反対側の山の口あたりに臨時改札口を作って、電車が着く度に、駅員が出向いて、臨時改札をしておる。といったような、一年の間にせいぜい二週間位しかやらないんだけれど、村にとっても、その人にとっても年中行事みたいになっている。というようなことが、すべて見えてきて、いいですね。この句のよろしさは、ああだこうだと説明していない。見えたものだけを、材料をとんとんと列べて、今僕が解釈したような内容をきちんと伝えているという点で、上等な句だと思いました。

賛美歌も花も余寒の葬儀(はふり)かな

ちょうど寒が終わった頃というのは、病の人は一番亡くなりやすい。二月、八月が亡くなりやすい。寒があけたんだけれど、あいかわらず寒さが続いて、献花などを待っている人の裾のあたりがすーすーと寒いという感じかもしれません。

春は曙ガレのランプの琥珀色

この句は字余りをうまく使った句ですね。「春は曙」とわざと字余りにしておいて、勿論、枕の草子の世界を背景に置きながら、まったりとした、落ち着いた時間の中で、ガレの不思議なアールヌーボーの琥珀色の色合いと温かさを一句にしている。とにもかくにも、「春は曙」と初五を字余りにして、ところで私は、清少納言が見たら喜ぶかもしれないような、これを味わっております。という句で、これも、なかなか上等な句ですね。