石神主水 第零句集『神の峰』鑑賞(磯田和子)
夏潮誌上に連載中の『時を掘る』を毎月楽しみに拝読しております。
季題になっている古い慣習や、私たちの生活に欠かせないが今や古くなってしまった物、それらにまつわる話が興味深く書かれており、つい引き込まれて読んでしまいます。
考古学者でいらっしゃる主水さん。発掘作業を通して古い時代のさまざまな物と出会っておられるのでしょうか。研究者の目で見て感じた世界を詠まれた句などもあるのでしょうか。『神の峰』という題名にも興味が湧きます。さっそく読み進み、魅かれた句をいくつか挙げてみたいと思います。
爽やかにふりかへらずに生きたくて
秋の澄みきった大気のなか、身も心も健康で明日への希望に満ち溢れている青年の姿が見えるよう。爽やかとは晴れ晴れとした彼の心持である。これから歩いて行く人生を悔いの無いものにしたいと、声高ではなくさりげなく宣言している一句。
心あてにバレンタインの予定あけ
キリスト教の司祭にまつわる記念日が、日本では女性から男性へチョコレートを贈る日としてすっかり定着したバレンタインデー。今や意中の男性へ思いを打ち明けるというものばかりではなく、義理やら友情やらさまざまあって、特に若い女性の間では早春の一大行事となっている。
さて掲句、若い男性が意中の彼女からの「本命チョコ」を期待してその日の予定を開けたという。心あてに待っている彼の気持ちが何だかいじらしく感じられて。さて、結果は如何に。
病窓の日のやはらかに蕗の薹
春の初めいち早く大地に黄色い花芽を出す蕗の薹。長かった冬が終わり、療養中の窓辺へやわらかな早春の光が射し込んでいる。そこから見える庭や近くの畦道には蕗の薹が顔を覗かせて春の訪れを告げている。春は生気が満ちて来る季節。やわらかな日差しが日一日と強くなるにつれ、病も確実に癒えてゆくだろう。蕗の薹が明るい予感をもたらしてくれるかのよう。
下闇の先行く君の腕白し
何人かで明るい日差しの下を歩いていたのが、急に薄暗い下闇の中へと入った。鬱蒼とした木立の下をずんずんと先へ歩いて行く君。薄暗い中ノースリーブから覗く腕の白さが一層際立って見える。君の素肌を意識して少しくドキッとしたのかも。
宮南池訪えば柳の風涼し
宮南池は韓国の百済時代の遺跡にある人工池。日本書紀にもその造形技術の記載があるとか。この句と前後の句は韓国で詠まれたもの。研究の為、暑い季節に彼の地を訪れたのだろうか。池の傍の柳を揺らす風が涼しいことよと。「涼し」は宮南池への挨拶でもある。
さて、次の三句、何かしら心穏やかならざる事がおありだったよう。
あてどころなき怒りもて熱燗を
持って行き場の無い怒りを抱いた胸に、熱燗の一杯はさぞや沁み渡ったたことであろう。
やすらぎといふ紅茶買ふ寒さかな
紅茶の銘が「やすらぎ」とは。暖かい部屋でいただけばほっとした気分にもなるだろうと思わず買い求める。心が寒い日。
この心見ぬかれぬやう懐手
心のうちに抱いているのは何かしらの企み、それとも相手を嫌悪する気持ちであろうか。見ぬかれまいと身構えるように思わず懐手をしたのだ。
木の芽吹く雑木に君のかくれてゐ
うち寄せる春潮おしやべりなほどに
木の芽、春潮、春の季題が恋心を詠っている。二人の幸せな時間。
でも、
幸せな恋などなくて業平忌
伊勢物語の昔から、上手くいく恋なんて恋じゃない。
雛くるむ古新聞の昭和かな
平成の世になってからもう随分と経つ。昭和の新聞にくるまれた雛はすっかり「古雛」なのであろう。
ところで掲句、雛を飾ろうとして包んであった古新聞が昭和のものと気づいたのだろうか。それとも雛納めのために古新聞に包んでいるところなのだろうか。
梅の香のわつと山門ぬけて来し
窓ごしの月光に手をかざしてゐ
はくれんの咲き初め夕べ長きこと
水鳥のからくりのごと泳ぎ出す
冬の雨ふいに激しくなることも
踊り子の越えし隧道木の芽風
がたぴしと二両編成山笑ふ
古伊万里のかけら打ち寄せ春浅し
ダリア咲く獄舎の庭や風渉る
神の峰霧生れてまた霧生れて
跋文によれば句集の題名にもなった掲句は結婚式を挙げられた上高地で詠まれたものとか。
上高地から望む穂高岳はまさしく神の峰である。その峰に霧が次々と生れては立ち昇って行く様子はまるで、二人の前途に幸多かれと山の神々が祝福しているかのようである。
以上、第零句集「神の峰」を読ませていただきました。
“考古学者イコールお堅い”という私の勝手な思い込みとは裏腹に、句柄は甘美で柔らかく、季題を優しく捉えて詠まれており、読み終えて今こころよい余韻にひたっております。
(磯田和子 記)