花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第69回 (平成18年3月10日 席題 梅一切・涅槃)

日脚伸ぶ仕事帰りの空の色
仕事帰りに空の色が見えるようなお勤めというのは、割にいいお勤めです。最近は働かされてばかりいるから、空の色はなくなって帰る。そういうご職業だということは羨ましい限りです。「日脚伸ぶ」というのは、冬の季題です。ということは、今よりも大分温度が低くて、かつ日の入りも早い。立春前に少し日が伸びたなと気づくのが、「日脚伸ぶ」という季題で、俳人独特の季題です。「日永」と言ってしまえば、春の季題ですが、それは立春以降に、誰でも、日が長くなったね。暮れが遅いねという。ところが俳人は非常に敏感ですから、立春になる前に「あ、日脚が伸びた。」ということなんですね。だから、探梅と同じで、「日脚伸ぶ」も「探梅」もどちらも冬の季題だということを、よく心得ておいて作らないと、難しいかもしれません。「仕事帰りの空の色」というと、どんな色。「仕事帰りの空に色」というと、真っ暗だったのが、日脚が伸びたんで、空に色が感ぜられた。「空に色がありますよ。」「空に色」という言い方もあるということですね。
門衛にお光背のごと梅の花
ちょっとした錯覚というか、見た目。門衛と言われる者が今何処にいるかと言えば、皇居とか国会とか、そんな所だけでしょう。その門衛と目される人が立っていると、本人は気づかないだろうけれど、こっちから見ると、ちょうど仏様の光背のように見えた。本人は気づいていないというところに、この句の面白さがある。俳諧的だと思いますね。
鳥居にも寄りかゝらせて苗木市
お宮さんの境内で、植木市があったんでしょ。いろんな植木を立てているんだけれども、細くて充分立たない植木もある。それを、ちょうど鳥居に凭れかけさせて、売ってをった。神様もお許したもうだろうという句ですね。
音もなく降りて気づかず春の雨
元の句、「音もなく降りて気づかぬ春の雨」。それでは説明です。どうしてかというと、「気づかぬ春の雨」というのは、連体修飾になって、形容がずっと続いていく。どういう春の雨。雨が名詞で、春の雨。どんな春の雨。降っても気がつかない春の雨。と言う風に、修飾関係が出てくると、説明っぽくなってしまう。それぐらいならいっそ、「音もなく降りて気づかず」で切ってしまって、「春の雨」とすると、切れが生じた分だけ、説明くささが抜けて、諷詠になってくると思います。ここのところは、ご当人がおられませんけれど、俳句の肝要なところで、説明にならないようにするという。なんて言って、なかなか最初の五年、十年、二十年位はむずかしいんですけれども。何でも訊いて下さい。これは説明だよというのは、私ははっきりとわかっていて、言っているつもりです。
鳥獣も集ひ涅槃図余白無し
大変賛同者が多くて、私もこの作者がこの句をお詠みになったことを、嬉しく思います。俳句を始められて何年たつか、五里霧中の時もおありになったことと思いますが、先ほど皆で涅槃図を見た。その時に、こういうふうに俳句を俳句らしく、きちっとお詠みになれるという力をしっかりとおつけになったなということで、ご同慶の至りであります。いかにも誠実に涅槃図を見て、鳥獣が集って、どこにも余白がなかったというところに、無駄が無いし、こういう句がお詠みになれるようになれば、本当によかったなと思います。


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