田中香『雪兎』鑑賞
渡辺深雪
田中氏の句には情感のあるものが多い。それは下に挙げる二つの句をみてもわかるだろう。
月あかり滴となりて蠟梅に 香
底石の蜷静かなる清水かな
前者の句では月の光を滴として見る所に詩情を感じ、後者の句では春の川の穏やかな様子が蜷の姿を通じて伝わる。
このような情感は、以下の句に見られる堅実な写生、それも季節の雰囲気をありのままに伝える写生によって生み出されるものだ。
桟橋に残る鱗の凍つるかな 香
春の蝶止まることを知らざるや
凍った鱗と元気に舞い上がる蝶の姿から、それぞれ冬の海の厳しい寒さと春の明るさを実感できる。
そして堅実な写生とそこから生まれる情感が、景の見える余韻のある句を作りだす。
芍薬にいよいよ雨の煙るかな 香
特急の止まらぬ駅の夕桜
田中氏の句はどれも詩情に満ち、写生のあるべき姿を示している。筆者も機会があれば、博多の地で同氏と同じものを見て句を作ってみたい。
白樺のつめたき幹に西日さす 香
避暑地の景であろう。寒冷な地に生える樺の木は、夏でもひんやり冷たい。そこへ夏の熱い西日が差しこみ、白樺の幹までが熱くなったように感じた。夏の明るい景と共に、白樺の冷たさと西日の熱さをこの句はそのまま伝えている。
卒業歌終はり講堂静もれる 香
卒業生の合唱が終わり、式場の講堂がしんと静まった。旅立つ生徒とこれを見送る大人達のさまざまな思いが、この沈黙の中に籠められているかのようだ。旅立ちを見守る教師としての、作者のまなざしが感じられる一句。
釣道具出しては仕舞ひ冬籠 香
どれほど釣りが好きな人でも、寒い時には外へ出るのをためらう。この句の人物も、釣りへ行こうと道具を出しては仕舞うの繰り返しで、結局家から出られないようだ。この仕草を通じて、冬の寒さに翻弄される人間の心理がコミカルに描かれている。
タンカーの上に寝そべる秋の雲 香
ゆっくりと進むタンカーの上に、雲がひとつ浮かんでいる。同じ方向へと流れて行くのか、まるでその雲が寝そべっているように見える。青く澄んだ空と穏やかな海の、静かな秋の情景が雲の姿を通じて浮かび上がる。
潮風を吸つて大根干しあがる 香
「大根干す」は冬の季題だが、「潮風」の吹く所が九州らしい。ここでは大根が海からの風にさらされて、うまい具合に干しあがるのだろう。干された大根を手に取ると、なんとなく潮の香りまで身にまとっているように感じる。潮風を吸いこんだその味は、また格別なものとなるはずだ。
竹林を包みて静か春の雨 香
竹林を包むように春雨が降った、それだけのことを言っているに過ぎない。だが、竹林の静かなたたずまいと春雨の柔らかな質感を、この句は上手く感じさせている。誠実な写生によって、季題のもつ気分がそのまま伝わって来る。
新築の家の映れる植田かな 香
季題は「植田」。田植の後に張られた水には、いろんなものが映し出される。作者が田んぼの中を覗くと、新しく建てたばかりの家が水面にくっきりと映っていた。田園の近くまで宅地開発の進む今日において、よく見られる光景であろう。新築の家というのが初夏の季題にも合っていて、なんとも清々しい。