花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第28回 (平成17年6月10日 席題 苺・虎が雨)

大川に纜(ともづな)垂らし虎が雨
大川という川は世の中にいくらでもあるわけですが、黙って大川と言えば、隅田川の部分称、隅田川の河口付近を大川というのが、普通の鑑賞でしょうね。ともづなというのは、艫(とも)から来る綱ですから、厳密に言えば船尾にある綱ということになりますが、舳先の綱が張っていて、艫側の綱が少し弛んで垂れて、水中に没している。川がゆっくり川上から川下へ流れて、舟も静かにそこに舫ってあったということなんだと思います。風がなければ静かなんだけれども、雨だけがざーっと降っているという、江戸の下町の風情が感じられますね。
水の辺の管理人小屋牛蛙
何の管理人小屋だかわかりません。うっかりすると、食用蛙とか牛蛙とかの 養殖池の管理人小屋かもしれません。そういう蛙を飼っていて、管理人小屋がしょぼしょぼとあって、とても家族で住めるようなものでない。何か仕事に破れてしまったような男がぼそーっと一人で住んでいるような、いぶせき小屋がそこにあった。「水の辺の」という、なかなか見かけない景をしっかりと捉えていると思いますね。
今年またバラ咲き初めし礼拝堂(チャペル)哉
礼拝堂と書いて、わざわざチャペルとふって、切れ字の「かな」が漢字である。という、大分意図がある。その意図が過ぎるとスランプになる。これも、ぎりぎりです。堀辰雄の「美しい村」の一場面のような感じが見えます。
麦秋の筑後平野に橋いくつ
筑紫次郎が流れておりますが、それに限らず、たくさんの川が流れて おります。また、大川とか柳川あたりは、小さいクリークがたくさんありますから、その平野、たくさん橋があるわけです。この句、元句が「麦秋の筑後平野の橋いくつ」。「の」でもいいんですね。「葛の花嬬恋の字いくつ」。「の」って言うと、「筑後平野の橋」というのがあって、それがいくつか。「に」だと、「筑後平野というものがあって、そこにいくつの橋があるの」ということになりますね。「に」の方が、臨場感というか現実性がある。「の」だと、若干概念的に捉えているきらいがあるという気がします。
今朝摘みし苺は五粒ジャムにせむ
大体これで、プランターかなにかで、ささやかにやっている苺ということがわかります。朝採れたのが、今日は五つ、明日はいくつっていう程度のもので、それを楽しみにして、毎朝、どうだろう。あれはまだ明日だな。あれはもう少し色づいてからにしよう。といった暮らしぶりが見えてくると思います。
抱擁の男女の看板虎が雨
中七の字余りが、ちょっと気になります。抱擁というと、男女なんでしょうね。だから男女はなくてもいい。まあ、映画の絵看板、仰々しい男女が抱き合った看板を想像すればいいんでしょう。それが町中に大きく掲げてある中で、雨がしとしとしとしと降っている。その兄弟の時代の女心、男の雄々しさ。そして今の映画に出てくる暮らしぶり。どうなんだろうなとちょっと思っている。これも虎が雨の情だろうと思いますね。

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