青木百舌鳥『鯛の鯛』鑑賞_渡辺深雪

青木百舌鳥『鯛の鯛』鑑賞    渡辺深雪
 俳人としての青木百舌鳥氏の経歴は長い。この句集に掲載されているどの句をとっても多彩に富んでいる。何より句集全体を通じて、独自の世界のようなものが感じられる。他とは違う趣のある同氏の句を論ずるのは容易ではないが、できる限りその魅力に迫って行きたい。
青木氏の句作を特徴付ける要素のひとつに、まず独自の視点がある。
人多くあれど噴井の水の音 百舌鳥
伐られたる株の平らや落葉中
人のざわめきの中で聞こえて来る音からは、噴井の水の勢いが伝わって来るし、その冷たさも想像できる。また株を中心に置くことで、かえって落葉に埋もれた地面の様子が見えて来る。いずれも視点を少しずらすことで、景の見える句を作り出している。
こうした独自の視点から生まれた句には、時に不思議な世界のようなものを垣間見せるものが多い。
枯木あり月あり海の底の如 百舌鳥
先生の傘か花野に動かざる
 冬の夜の情景は、なるほど何もかもが静かに眠る暗い海底のようにも見える。師匠が置き忘れたに違いない花野の傘も、ずっとそこで花を見ていたいという持ち主の想いを代弁しているかのようだ。独自の視点からとらえた情景が、想像する楽しみをもたらしている。
 独自の視点から生み出される青木氏の句には、ユーモアやおかしみを感じるものも多い。
僧正の豆撒きこぼしたまひけり    百舌鳥
猫迎へ来たりてくしやみくしやみかな
 豆撒きの行事に現れたいかめしい僧正の失敗が、「たまひ」という敬語を用いながら皮肉を効かせて描かれている。猫アレルギーの人間が二回続けてくしゃみ(くさめ)をする様子も、「くしやみくしやみ」と同じ言葉を繰り返してコミカルに表現されている。
 青木氏の句を特徴付けるものはこれだけではない。句作を通じて経験を積み重ねて来た同氏の句には、人生に対するある感覚のようなものが感じられる。
別れたる子猫ふり返りもせぬよ 百舌鳥
人生きて病ひも生きぬ永き日を
 親猫の元から巣立つ猫、病と共に春の長い午後を過ごす人の姿を通じて、四季と共にうつろう世に対する作者の想いが見てとれる。ともすれば主観的になりがちなこの感性も、客観写生という原則の中で、抑制の効いた深みのある描写に変わる。
浮く羽をとどめて春の水の綾  百舌鳥
草舐めし風に糸とんばう消ゆる
 春の水のやわらかさ、糸とんぼのはかない様子が、それぞれ水の上に浮く羽と、そっと吹く風の中に『消える(消ゆる)』描写により見事に表現されている。独自の視点と豊かな感性が、季節の気分を伝える味わいある句を作り出しているのだ。一見シンプルに見えるこれらの句は、俳句の本来あるべき姿を映し出しているのである。
明日雪とスープ煮ながら思ひけり 百舌鳥
 季題は『雪』。が、肝心の雪そのものは描かれていない。描かれているのは、体を温めようと夕食のスープを作っている情景だ。作者は美味しそうにスープが出来上がるのを見て、明日雪が降ると天気予報で言っていたのを思い出した。台所の冷たい空気の中、白い湯気を立てるスープが作者にこれを思い出させたのだ。熱いスープを作る様子が、これから降る雪を予感させるところが面白い。
夏草のぼつぼつ生ふる売地かな 百舌鳥
 以前人のものであった土地が、何らかの理由で売りに出されているのだろう。ここにあった建物はすでに取り壊され、跡には青い夏草が少しずつ生え始めている。夏草といえば、芭蕉の『夏草や 兵共が 夢の跡』という句があまりにも有名であるが、草が生えるだけとなったこの売地にも、人の世のはかなさがよく表れているではないか。地面に生える夏草は、人の営みには目もくれずすくすくと成長して行く。いつの世にも変わることのない自然の姿が、この句には描かれているのである。
日溜りをうはすべりして春の水 百舌鳥
 雪解けの水が川や湖に流れ込むこの頃、温かな春の光が少しずつ差し始める。作者がふと水辺に目をやると、陰一つない日溜りの中にやわらかな春の水が流れていた。川の水はなめらかに、日溜りの上をさあっと滑って行く。日溜りの明るさと温かさが、春の水の軽やかさを際立たせているようだ。おだやかな春の情景を描いたこの句の中に、作者のものを見る姿勢と描写の巧みさを見ることができる。
平滑な風を得たりし蜻蛉かな 百舌鳥
 涼しい秋に蜻蛉はよく似合う。さわやかな風を受けて飛んでいるのを見ると、秋の訪れをしみじみと実感する。さて蜻蛉が飛ぶのを見ていると、そこに一筋の風が吹いた。風に流されながら、蜻蛉は気持ちよさそうに飛んで行く。これが作者の眼には、文字通り蜻蛉が『風を得た』ように見えた。一見説明調にも見えるが、蜻蛉が風と戯れる澄み切った秋の情景を、この句は見事に描き出している。
剥製の熊にしてこめかみに孔 百舌鳥
 季題は『熊』。北国の裕福な家庭かそれとも郷土博物館の中か、大きな熊の剥製が生前さながらの姿で立っていた。ふとその頭に眼をやると、こめかみに穴のようなものが開いていた。それがこの熊を倒した弾の貫通した跡であることに、作者はすぐ気づいた。それが無かったことであるかのように、剥製の熊は堂々と立っている。かつてこの熊が生きていた証であるこの穴を通じて、なにか触れてはならない深淵のようなものを作者は垣間見たに違いない。
清水くみ受けたる缶の冷たかり 百舌鳥
 暑い夏の一日、涼を取ろうと山の湧水を手ですくった者は多いだろう。岩間から流れ出る清水は、痛みを感じるほどに冷たい。が、これが熱い日差しの下では何とも心地よい。後でゆっくり味わおうと、この水を缶で汲み取った。すると清水を汲み取った缶そのものが、急に冷たくなるのを感じた。その冷たさがまた気持ちよい。清水の清涼感が、手触りの感覚を通じて読む者に伝わってくる。
踏跡の尽きて枯野のあるばかり 百舌鳥
 季題は『枯野』。誰かが先に足を踏み入れたのであろうか。何もかもが枯れ果てた野原に、人の足跡が続いているのが見えた。作者がこれをたどって行くと、突然枯野の真ん中で途切れてしまった。周りを見渡すと、ただ荒涼とした大地が広がっているばかりである。足跡の主はこの光景に幻滅して、あるいは恐怖のようなものを感じて引き返したのだろうか。途中で止まった足跡が、『あるばかり』という言葉の余韻と共に、枯野の物寂しい情景を際立たせている。
蛤の開けば湯気吐く網の上 百舌鳥
 『蛤』は春の季題。一言で言えば美味そうな描写である。海に近い店かどこかで、とれたての蛤を網焼きにしているのだろう。固く殻を閉じていた蛤も、熱さに耐えかねたのかゆっくり殻を開け始めた。すると真っ白な湯気が、開いた蛤の中からじゅうという音と共に上がった。勢いよく立ちのぼる湯気の下で、蛤は相変わらず網に横たわって焼かれている。蛤から上がる白い湯気が、ある意味で春の訪れを告げているように感じられる。
あめんぼの底の影こそよく見ゆれ 百舌鳥
 季題は『あめんぼ(あめんぼう)』。最近では、都市化と共に小さな川のほとんどが暗渠となり、この虫を見る機会も少なくなった。さて、あめんぼは水の上を結構早く泳ぐので、なかなか人間の視界に入りづらい。が、作者が覗いた水の底には、あめんぼの影がはっきりと映っていた。水底に映るこの影は、水面の本体よりはるかにあめんぼらしい形を見せている。人とあめんぼ、生命と生命が戯れる小川の水の澄み切った様子が、水底の影を通じて浮かび上がる。
稲穂よく稔り葉先のよく尖り 百舌鳥
 『よく稔り』『よく尖り』という言葉のリズムが、稲穂の波打つ様子をそのまま連想させる。あたかも作者自身が風となり、目の前の稲穂を踊らせているかのようだ。よく尖ったその葉先は、稲の出来が非常によいことを表している。尖った葉先が風に吹かれて揺れるのも、見る者にとっては何とも心地よい。まもなく、美味しいお米がここから沢山採れるのであろう。作者独特の言葉のリズムと、確かな観察眼が生んだ秀逸な句である。
 今回の鑑賞を通じて、写生という行為のあり方を改めて学んだ気がする。これからの句作を通じて青木氏の句がどう進化して行くのか、楽しみである。

青木百舌鳥『鯛の鯛』鑑賞_渡辺深雪” に1件のフィードバックがあります

  1. mozu
    たくさん拙句をご鑑賞いただきました。ありがとうございます。 特に剥製の句をご鑑賞くださりましてありがとうございます。 「剥製」を季題と見做すかは甚だ疑問ではありましたが うかうかと所収してみました。 嘱目の句で、確かにその頃の句ではあります。 が、「どうなんだろう」と未だに悩んでいる句です。 好意的にご鑑賞いただいたようで、救われます。
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