花鳥諷詠心得帖44 三、表現のいろいろ-19- 「前書・詞書二」

前書付きの俳句、続き。

    鎌倉
秋天の下に浪あり墳墓あり 虚子

「鎌倉」との前書に、虚子の思いが込められている。虚子が育ったのは伊予松山郊外の西の下。虚子の「露のわれ」という写生文に

「海岸と言ふものは凡て白砂青松で、海と言うものは眠るが如く穏かなもので、潮は透き通るやうに美しいものであると心得て居たのが(中略)鎌倉の大きな波やを見るやうになつて、私の天地は幾変化したのであつた」
とあるように、瀬戸内海には「浪」、少なくとも鎌倉を襲う土用波の如き「浪」は無い。「墳墓」はおそらく頼朝のそれなどを頭に描いているのではあろうが、ともかく、前書を欠いては、虚子の半生を振り返っての感慨は全く伝わってこない。

ところで、例えば『五百句』には一句一句、成立の時期や出句された句会名などが添えられていることを前稿でふれた。それらを筆者は「詞書」と呼び慣わしている。『古今集』などのそれに倣ったつもりだが、時にその「詞書」が、これまで紹介してきた「前書」に匹敵する情報、おそらく必須の情報を含んでいる場合もある。

飛騨の生れ名はとうといふほととぎす 虚子
    昭和六年六月二十四日 上高地温泉ホテルにあり。
少婢の名を聞けばとうといふ。

「昭和六年云々」以下が筆者のいう「詞書」である。この句など、この詞書がないと、「とう」がどんな人物だか不明だ。まさか馬や犬には「飛騨の生れ」とは言わないであろうから、「人」であろうとは思う。それが少婢の名と判れば、飛騨から上高地の温泉宿に稼ぎにきている少女の淋しいような境遇が 自ずから読者にも想像される。

しかも次の、

火の山の裾に夏帽振る別れ 虚子
     昭和六年六月二十四日 下山。 
とう等焼岳の麓まで送り来る。
の句と詞書によって紀行文の一部のようなパノラマを見るような気分になる。
子の日する昔の人のあらまほし 虚子
      昭和八年四月十九日 大磯一本松、中村吉右衛門別邸に行く。
安田靫彦の意匠になるといふ庭に昔絵に見るが如き稚松多し。
「子の日」は「小松引き」のこと。正月の行事だ。それを四月に「心に描いた」わけだが、詞書を読めば納得出来る。つまりは吉右衛門別邸の庭への「挨拶」だ。「安田靫彦の意匠」と詞書に記したことによって、読者の脳裏には靫彦流の画面構成、筆致までが想起される。実景を詠みながら、理想画を描いている。