花鳥諷詠心得帖41 三、表現のいろいろ-16- 「切字(なり)」

「なり」はやや面倒臭い。

つまり「なり」と言っても断定の助動詞「なり」があり、推量(専ら音声的)の助動詞「なり」があり、 形容動詞の活用語尾の「なり」もある。 どの場合でも「なり」と切れて使われていれば「切れ字」には違いないのだが、 よく見ると「切れ方」に若干の強弱はある。

まず『五百句』中、断定の「なり」。

縄朽ちて水鶏叩けばあく戸なり  虚子
蛇穴を出て見れば周の天下なり 々
村の名も法隆寺なり麦を蒔く 々
蜥蜴以下啓蟄の虫くさぐさなり 々
浦安の子は裸なり蘆の花 々

これらは「名詞」プラス「断定のなり」の例。 「断定のなり」は珍しいことに「体言(名詞)」に接続する。 まあ現代語で言うなら「…だ」、「…なのだ」と言う感じ。

つまり水鶏の句で言えば、裏木戸を縛ってある縄もすっかり腐ってしまって、 遠くで水鶏が啼いた程度の刺激でも開いてしまうような、そんな「戸なのだ」、となる。 次の句でも、蛇が長い冬眠から覚めてみたら、いつの間にか、すっかり世間は「周の天下なのだ」となる。

さらにこの「なり」、下五より中七の句末に置いてある方が印象が鮮明で、

村の名も法隆寺なり麦を蒔く 虚子
浦安の子は裸なり蘆の花 々

など一句の興味・中心は寧ろ中七に傾いているのではと思わせるだけ「切れ」の効果がある。

次に推量の「なり」の例としては、

書中古人に会す妻が炭ひく音すなり 虚子

がある。 「なり」は「めり」と対応する推量の助動詞で「めり」が視覚的根拠に依るのに対して 「なり」は聴覚的根拠による。 「古人」の句でも主人公は閑かに書斎で読書三昧に耽っている。 ふと現実に戻った耳に炭を引く音が聞こえる。その音を「妻」だな、と推量している訳だ。 この「なり」の方が「切れ」としては柔らかい。

最後に形容動詞の「なり」。

盗んだる案山子の笠に雨急なり 虚子
旧城市柳絮とぶことしきりなり 々
山寺の古文書も無く長閑なり 々

形容動詞という文法単位が果たして絶対的な物なのかどうか、やや疑問も残るが、 これらは意味的に「切れる」というより音声的に決着を付けている、という感じだ。 文法的には本来無関係な筈の「詠嘆」といったニュアンスまで感じさせるのはどういう訳であろうか、 まだまだ解明しなければならない部分は多い。