花鳥諷詠心得帖31 三、表現のいろいろ-7- 「 字余り(字足らず)」

さて長らくに亘って虚子の「字余り」句を眺めてきた。

『五百句』に限っての資料なので充分語り尽くせたとは思っていない。
しかも虚子の例句だけであってみれば、結局何も見ていないような仕儀となってしまった。
他日を期したい。

ところで「字余り」があるなら「字足らず」もあるはず。
よく初心の方と俳句会をしているとお目にかかる。
所謂「五七五」の調子が身に付かないうちは、それこそ指折り数えなければ、
時に「字足らず」の失敗をしてしまう。
ただし「字足らず」といっても読み方の工夫で「字足らず」にならずに鑑賞出来る場合もある。
たとえば典型的な例が「日短か」だ。

物指で背かくことも日短  虚子(『五百句』)
来るとはや帰り支度や日短   々  (々)
うせものをこだわり探す日短か 々(『六百句』)
探しもの見当らぬまゝ日短 々(『六百五十句』)
これらの下五をそのまま訓むと「ヒミジカ」と四音しかなく、確かに「字足らず」なのだが、
これらを「ヒッ、ミジカ」と訓めば何となく五音あるように聞こえる。
だから、これらの句は俳句の世界では昔から「字余り」には扱わないことにしているのだ。

さらに同じような例を古い友人の西村和子氏が指摘してくれた。即ち、
と言ひて鼻かむ僧の夜寒かな 虚子

この句も上五をそのまま訓めば「トイイテ」と四音にしかならないが「、トイイテ」と「ト」の前に
空の一拍を入れれば「字余り」のはならない。
これも馴れた読み手に巧みに訓まれたら、気づかぬ人も少なくないと思われる。

ところでこれらを「字足らず」とするかどうか若干躊躇いがのこる。
「日短」にせよ「と言ひて」にせよ、不味い読み手では確かに「字足らず」になってしまうが、
巧みな読み手にかかれば、五七五のリズムのなかに見事に溶け込んで違和感を感じさせない。
耳から聴く「詩」としてはそれで文句はないわけだ。

そこでもう一つ難問。同じ西村氏の指摘だが、
初雷や耳を蔽ふ文使 虚子
この句は『年代順虚子俳句全集』第一巻所収、明治三十二年三月の句。
さらに『喜寿艶』に再録されたので、多くの人の眼に触れているはずなのだが、
「字足らず」との指摘は寡聞にして耳にしなかった。
他に訓み方があるのかもしれない。
しかもこちらの例は前出の二例のように上手い読み手が努力しても、いかにもリズムが悪い。

こんな例はあるものの、「字足らず」は容認出来ないというのが、「字余り」の話の序での結論として置こうか。
「初雷」の句の訓み、御教示頂ければ幸甚。