序にかえて
この度、今月に入って刊行された永田泰三氏の第零句集『一歩』を拝読させていただいた。どの句にも、俳人としての同氏の人間性が滲み出ているように感じられた。鑑賞をさせていただくにあたり、この句集を通じて浮かび上がる作者像について書いてゆきたい。
まずはやはり、永田氏が抒情を愛する感性豊かな人間であることだろう。その豊かな感性は、以下に挙げる句からもうかがえる。
駅を出てそれぞれ家へ春の月 泰三
口笛を乗せて遠くへ青田風
一人一人が家路に着く上に浮かぶ春の月のほのかな様子や、口笛を運ぶ初夏の風の爽やかさなど、読む者の情感をかきたてるものがあるだろう。永田氏の持つみずみずしい感性とリリシズムを、この二つの句は見せてくれる。
だがこの豊かな感性も、日常性を大事にする同氏の生活感覚あってこそ生かされる。これを証明する二つの句がある。
五月雨にやることなくてギター弾く 泰三
母としてごきぶり打ってをりにけり
外に出るのが面倒でギターを弾いて気を紛らわせる休日や、ごきぶりを打つ主婦などはよく見かける光景だろう。特に前者の句の「やることなくて」というぶっきらぼうな言葉からも判るように、永田氏の作る句では日常の光景が飾り気のない言葉で描かれている。同氏はことさらに難しい言葉を並べるようなことはしない。素朴な生活感情を失わず、日々の営みをありのままに描く人間なのだ。
ありのままに見たものを描く永田氏は、優れた観察眼を持つ俳人でもある。
蕊を見てをれば香れる梅の花 泰三
蕊に濃き桃色集め桃の花
梅と桃の違いはあるが、共に蕊という一点に集中して対象を描き、それぞれの美しさを表現することに成功している。細かな所に至るまでものを見る姿勢が、奥行きのある写生を可能たらしめているのである。
最後に、永田氏の人柄を特に強く浮かび上がらせている句がいくつもある。以下の句をご覧いただきたい。
日脚伸ぶ頃に生まれて来てくれて 泰三
咳の子の小さき背ナをなづるかな
我が子に寄せる思いを詠んだこれらの句から、同氏の温かな眼差しを感じることができる。こうした温かな眼差しは、我が子への愛情を詠った句だけに見られるものではない。夫として、父として、聖職者として、教師として、永田氏は他者に対して常に慈しみの心を持って接している。そしてこの慈しみの心こそが、その豊かな教養と並び同氏の句作を支えているものだ。句作において強調される写生とは、生命あるもの(生)を写すことである。永田氏は万物への温かな眼差しを決して失うことなく、この慈しみを持って生命あるものを詠う俳人なのである。
飛び立てる時の力や寒鴉 泰三
寒空の下、鴉が大きな羽音を立てて飛び立つ瞬間を描いた句。寒鴉は一月の季題であるが、この時期は空気が乾燥しているため、物音が大きく聞こえる。鳥の中でも体躯の大きい鴉が羽ばたけば、一層強く耳に響くはずだ。だがこの句の中では、「音」を表す言葉を用いる代わりに、「力」という一語にこの情景を凝縮させている。何もかもが枯れ果てた、冬の荒涼とした情景をこの季語は連想させるが、ここでは厳しい季節を生き抜く禽獣のたくましさと生命力をむしろ感じることができる。
待たされてゐる事楽し春隣 泰三
「待つ」というのは嫌なものだ。まして一月の冷たい風が吹きすさぶ中であれば尚更である。「待たされている」と受動態で書かれている点からも、これが作者の本意でないことは容易に想像できるだろう。が、周りを見ると外の日差しは明るく、もうすぐ花開く気配すらうかがえる。春は少しずつ近づいているのだ。それを思うと、こうして待たされていることも、段々楽しく感じられて来る。「待つ」という面倒な行為を「楽し」と言い切ることで、「春隣」という季語が実感の持てる言葉となっている。
寝そべりて雲雀揚がるを見てゐたり 泰三
よく晴れた春の休日、作者は家族あるいは友人と近くの野原へピクニックに出掛けた。やわらかな草の感触が気持ちいいので、大地の上にあお向けになりただぼんやりと空を見上げていた。するとそこに、普段はあまり見ることのできない雲雀の影がひとつ、高く舞い上がろうとしているのが見えた。雲雀は空の一点となり、高く高く昇って行く。作者はこのまま横になりながら、その姿をずっと眺めていたいと思った。そんな作者の眼を通じて、明るく牧歌的な春の風景が浮かび上って来る一句である。
体操着着て休日の田植かな 泰三
田植を手伝う子供の姿を描いた句。描かれているのは、休日の田園の風景である。学校の授業は休みで、子供は家にいる。大人たちは外で苗を植えている。子供はそれを見て、自分も手伝いたくなった。が、服装は汚れても良いように、体育の授業で着る真っ白な体操着である。この白い体操着がまた、田んぼの匂いと青々とした苗の色に合う。田舎の子の元気な様子と田植の明るくみずみずしい情景が、体操着と田植という組み合わせから見えて来る。
百日紅暑さ喜び咲けるかな 泰三
百日紅はちょうど夏の暑さがピークを迎えたころに花開く。灼熱の太陽の下、赤い花が一斉に咲くその様は「燃える」という形容にふさわしい。ことに蒼く広がる真夏の空とのコントラストは壮麗である。夏の盛りに咲き誇る様を見て、作者はこの花が暑さを「喜んで」いるのだと感じた。なるほど、燃えたぎるような暑さに呼応して、真っ赤な花を開く様は「喜び」の表現として受け取ることができよう。この「喜び」という一語からは、夏の植物の生命力がまばゆいばかりの明るさと共に感じられる。
帰省して母校の前を通りけり 泰三
「母校」というひとつの言葉に、作者の様々な思いが込められている。夏休みなどで長い休暇が取れたので、久しぶりに故郷の街に帰って来た。車かバスで実家へ向かう途中、かつて通った学び舎が眼に飛び込んで来た。青春を過ごしたこの建物を見て、本当の意味で自分のふるさとに帰って来たことを実感した。が、感傷にふける間もなく、車はその前を通り過ぎて行く。すでに卒業して大人になった作者は、もうここに戻ることはできないのだ。失われた時代への郷愁が、一瞬の光景を通じて読者に伝わる一句。
秋風におもちゃの車走り出す 泰三
小さな子供がいる家庭の情景。下に小さな車輪のついた、消防車かスポーツカーを模った子供用の乗り物がこの句の中心である。子供が遊び終わった後、地面に置いたおもちゃの車に秋風が吹き、ひとりでにコロコロ動き出した。ただそれだけのことを描いているのだが、その転がって行く様子からは秋風が吹く情景の静けさと、何かが終わったようなもの淋しさが感じられる。子供もいずれ大きくなり、この乗り物で遊ばなくなる日が来るだろう。それを思うと、このおもちゃが持つ意味合いもまた違うものになる。
柿吊す事が仕事や日曜日 泰三
秋も深まり行くころの、山村の農家で見た風景。地方ではまだ残っているはずだが、熟れた柿を軒先に吊るして干し柿を作る慣習は、秋の原風景になっている。この柿を吊るしているのは、六十を過ぎたくらいの老夫婦だろうか。「仕事」とはいっても、平日の農作業と違うのでゆったりと動いているように見える。普段都会で忙しく働いている作者の眼には、新鮮に映ったに違いない。のんびりと柿を吊るしている姿は、深まる秋の穏やかな情景と共に、都市での生活に疲れた人間の心をいやす何かを感じさせてくれる。
宙に浮く如くに夜の紅葉かな 泰三
秋の深まりと共に夜の訪れも早くなる。昼間は眼の前に現れていた木々の幹と枝が、夜のとばりに紛れて見えなくなってしまった。色とりどりの紅葉だけが、闇の中に姿を現している。それを作者は、「宙に浮く如くに」見えたのである。黒い闇と紅葉の色のコントラストもさることながら、「宙に浮く」という表現が後者の持つ一種の妖艶さをより強く印象づけている。深い闇の中に紅葉の姿が浮かび上がる様が、読む側に静かな幽玄の世界を垣間見せている。
焚火する人を見てゐる烏かな 泰三
先に「寒鴉」の句を取り上げたが、この烏(鴉)という鳥は冬の風景によく馴染む。その不気味なイメージが、殺伐としたこの季節の情景に似合うからだろう。さて、焚火をしていると一羽の烏が近くに止まっているのが見えた。火を焚いている人間たちの方を、烏は鋭い眼でじっと見ている。本当なら、「見ている」のは(作者を含めた)人間たちの方であるが、「見ている」主体を烏に置き換えることで、両方の姿が焚火を中心にパノラマとなって見えて来る。人間が作り出す火と煙に、烏は何を思うのか。もしかしたら、烏の方でも冬の寒さに我慢できず、一緒に暖を取りに来たのかも知れない。
他にも取り上げたい句がいくつもあったが、筆者の好みと力量によりやや偏った選になったかも知れない。これからも、永田氏がより温かな味わいのある句を作ってくださるよう切に願う。