前北かおる句集『ラフマニノフ』(2011年5月)

「夏潮」の創刊以来の運営委員であり、第1回黒潮賞を受賞した前北かおるさんの第一句集『ラフマニノフ』(ふらんす堂 2011年5月)。


『ラフマニノフの歌』                 石神 主水  (『夏潮』2011年10月号)


前北かおる君の俳句は、子どものような(失礼、純粋な)素直さに一貫して支えられている。

露草のミッキーマウスミニーマウス

かおる君の俳句生活では、まだ修業時代初期の句。小粒で可憐な藍色の露草の花をミッキーとミニーに見立ててしまう眼差しと俳句に仕立て上げてしまう無鉄砲さ、いや大らかさは、彼の持って生まれたセンスだろう。

初明り膨らんできて初日かな

かおる君が「あとがき」で書いているように、免許取りたての「かおるカー」で、しばしば吟行という名のドライブに出かけた。そのなかでも茨城県の御前山方面に初日は印象深い。山頂のらせん階段がむき出しの展望台(御前山ではなく、三王山であったか)に、地元の若者たちと一番争いをしつつ、見た初日は、大きく力強かった。

山鉾の戦の如く来たりけり

杉原祐之くんと三人で行った祇園祭。祇園祭は博多山笠のような激しい勢いのあるものでないが、巨大な山鉾が林立して、京の大路を堂々と巡るさまを、「戦」と叙したところに、やはり、かおる君らしい大らかさがある。

そのかおる君も大学院修了後、生涯の伴侶、麻里子さんを得て浜松へと行った。まことに順風満帆、まさに「ウエディングパーティーを載せ遊び船」である。この浜松時代、自身は句作のペースが落ちたと書いているが、たくさんの句を詠み、捨て、佳句を得ている。幾つか掲げたい。

全島のライトダウンに星祭

炭頭とろけてきたる火力かな

フェレットが腕よりこぼれたんぽぽ黄

大いなるジャスコが出来し秋桜

春雨に弾いて歌うて夫婦なる

春雨に二人は何を歌ったのか、詮索するつもりはない。しかし、後の句に「春の夜や娶りてしばし住みし町」があるように、夫婦として気持ちを一つにできたのが、この浜松時代であったのだろう。そして東京に戻り、母校慶應義塾中等部に奉職して現在に至る。近年の句は、さらに花鳥諷詠を極めつつ、温かな家庭を大らかに読んでいく。

吾と妻の間に生るる蝶々かな

春めくや夜の歌とは愛の歌

産声や青葉の殿の名を継ぎて

まさに待望の長子を得ることとなった愛が溢れている。

惜春の心ラフマニノフの歌

この句集の表題句にこそ、こうした彼の句の本質がある。ラフマニノフはロシアの音楽家であり、その曲中における甘美なピアノの旋律は春を惜しむ感覚に素直に調和する。このロマンチシズムこそ、かおる俳句の真髄なのである。


産声や青葉の殿の名を継ぎて   かおる  

  赤ン坊の泣声というものは、人の心を和ませる不思議な力を持っている。ましてや待ちに待った「産声や」ともなれば、父、母、となった二人は勿論のこと、周囲の身内の人たち、居合せた見知らずの人たちにとっても、まことに心地良い天使の歌声というものであるに違いない。私の住む小さな路地も老齢化が進んで久しいが、先般隣家の若夫婦に赤ちゃんが出来て時折泣声が洩れて来る。

  その泣声を聞くと自分の心が何とも言へない安らかな気持になるのを覚える。同じ頃、私には末の孫娘に二人目のつまり曾孫が生れた。多少の年令差はあるがかおるさんもつまりは孫の世代である。そこにまた一入の感慨がある。お世話になってをる夜の夏潮池袋句会で、かおるさんがこの句を披露されたことを記憶している。正確な言葉は覚えていないが確か「事前に性別は分っていたので生れる前に句が出来てしまった」というようなお話であったと思う。「産声や」という詠い出しにいま父となった何ともいえない喜びが余すところなく表現されている。

  俳人にとって第一句集が「産声」であるとすれば、その句集の棹尾を飾る句としてまことにふさわしい一句とも言えよう。 (今野露井)


店番の暇に温習(サラ)へる踊りかな   かおる

 「夏潮」創刊の一年前、平成十八年八月本井居で一ヶ月連続して開かれた「日盛会」に出された句とある。

  「踊り」は「盆踊」のことで、目にする句のほとんどは盆踊りの場の情景が多い。だが本番を前に、店番をしながら、さらっているのを見逃さず詠んだのが、この句である。こう詠まれてみると、村での暮らしがよく見える。都会の暮らしでは「店番の暇」はなかなかない。田舎へゆくと、朝早くから起きている間中、店を開けている。お客は殺到しないから、店番をしながら炊事も庭畑の手入れもする。お盆に向けては盆踊の復習が最も大切なのだ。

 かおるさんと初めて会った日、拙宅で句会をした。句会の後、軽やかにピアノを弾かれたかおるさんを思い出す。身についた音楽があればこそ、ラフマニノフやドビュッシーの佳句を創り得たと思う。一方で盆踊りの句や里神楽など、日本の民俗を細やかに詠んだ句に、慶應の折口先生の伝統に連なるものを感じる。

著者の類いなく深く広い心が、どのようなものを掴んでいくのか、楽しみである。 (山本道子)


藪椿歓喜の歌を歌ふかに    かおる 

  第一句集の『ラフマニノフ』の題名からも、又ワーグナ ー、エルガー、ドビュッシー、ショスタコーヴィチ他、奥 様と「弾いて歌うて」と句集には音楽に関する俳句が十句 以上あり作者は音楽、とりわけクラッシックがご趣味で造 詣の深い方と窺える。それ故掲出句の「歓喜の歌」は毎年 暮になると大合唱で歌われるあのベートーベンの交響曲第 九番第四楽章の「歓喜の歌」と思って間違いないであろう。

 豊かな森に今を盛りと多くの花をつけた高木の藪椿が想 像できる。藪椿の花はさほど大きくないが、真つ紅な花に 大きな黄色い蘂が目立つ。その花が密に咲いている様子は、 まるで大合唱隊がクライマックスを歌い上げているように 見えた。しかも艶やかな緑の葉に花の紅が引き立ちその華 やかさが一層増す。「歌を歌う」と歌の字を重ねた事で華 やかさとパワーが表現できた。いつも真摯な写生態度の作 者が目をこらしての写生の途中、ふいにこの薮椿が心の奥 の音楽に響き、あの「歓喜の歌」が蘇ったのだと思う。

 この句集はご結婚ご長男誕生の慶事やご家族の愛、絆又 何よりも俳句を作る作者の喜びが溢れている。俳句はその 時々の心持ちが自然と句の中に現れるものであるが、この 句も正にその通り、喜びのお裾分けを頂いた一句である。  (前田なな)


秋灯下時を刻める金の針    かおる

 秋のある日。ひとりの時間。

 静かな夜、時計の目が止まりました。やわらかいオレンジ色の灯りの中で金の針がしっとりと存在しています。

 今日届いた俳誌を読んでいるのかもしれません。テーブルの上にあった葡萄を食べているのかもしれません。昼間のちょっと嫌な出来事を思い返しているのかもしれません。なんとなく携帯電話をいじっているのかもしれません。明日は休み、今夜は夜更しするのもいいなあと考えているのかもしれません。

 時計を見ると、さっきからあまり時間が経っていません。短針も長針も気配を消しています。秒針だけが動いています。と、急に音が聞こえ出しました。時を刻む秒針の音。チッチッチッチッチッ。もうその音しか聞こえなくなりました─。

 毎日の暮らしの中でこんな時間はやって来ます。秒針の チッチッチッチッチッという音を聞いて、次第に心が落ちついてゆくこともあるし、どこか心細く不安な気持ちになることもあります。この句からは前者をイメージしました。今夜、金の針はいつもよりゆっくりと時を刻んでいるのです。何気ないけれどとても良いひとときが、かおるさんに訪れたことが伝わってきます。 (金子千鶴)


楽団を待ちをる椅子や秋灯下 かおる

 コンサートホールのステージに照明がともり、「開演に先立ちまして…」のアナウンスが放送される。静かになる。聴衆は、黒い服の楽員が出てくるのを待つ。ステージをよく見ると、指揮台に向いて扇のように配置された一つ一つの椅子が楽員を待っているように思われる。黄色味をおびた照明とステージの木の色、楽員の黒い服といった色彩感、秋のともしびの温かさ、指揮者が出てくるときの拍手やチューニング、これから奏でられる曲など、五感を刺激してくれる句でもある。

 「楽員を」でなく「楽団を」としたことの効果は二つ。一つは、クラシック以外にジャズやタンゴのバンドでも読めること(前書からはオーケストラであることが明瞭だが、それは措くとして)。もう一つは、ステージに配置された椅子全体が「楽団」という集団(かたまり)を待っているニュアンスが表れること。これに対して、「楽員を」としたならばクラシックが連想され、また一つ一つの椅子がそれぞれの主である楽員を待っている、という風景になる。いずれを採るかは目の前の実景と作者の美意識にかかるが、作者が慎重に措辞を選んでいることがうかがえる。   (小沢薮柑子)


枝伝ひ枝伝ひして梅が散る かおる

 はじめは風らしい風は吹いていなかったのだろう。零れ出た梅の花片は垂直にのびた枝を伝い、ゆっくり降りてゆく。それがやがてその枝の付け根にある太い枝に当たったかとおもうと、今度はその太枝の上を転がるようにして移ってゆく。そこにはわずかな風の助けもあったかもしれない。そのうち花片は枝(幹)を逸れ、地に落ちてしまった。

 梅の花片がこんなふうにきちんと枝を伝って散っていったかどうかはわからないが、「枝の伝い方」をさまざまに思い描くのは読者の自由だ。掲出句には、梅がどんなふうに枝を伝っていったのかは書かれていないのだから。

 では、何がこの句の骨格をなしているのか。それは「梅の木の形」である。この句は「枝伝ひ」と二度言うことで異なる二つの枝を見せる。そしてそれを手掛かりにさせて、縦にのび横にのびあるいは捩れもした、複雑でむつかしい形の梅の木というものを読者に喚起させているのである。読者一人一人がそれぞれにそんな「梅の木の形」を思い描くことができたとき、この一句はすでに成功しているといっていい。あとは、実際に「梅見」でもしているかのように、この梅の木と対峙し、その花片のさまざまな「伝い方」「散り方」を心ゆくまで楽しめばいい。

 実に省略の効いた一句といえよう。   (藤永貴之)


●その他関連記事は以下のとおり。

●著者本人のページ「俳諧師 前北かおる」の「ラフマニノフ」関連ページ

「やぶろぐ」

「前北かおる句集「ラフマニノフ」を読む(1)」

「前北かおる句集「ラフマニノフ」を読む(2)」

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