小父さんが去り山雀もゐなくなり  児玉和子

 季題は「山雀」。小禽類の例に漏れず秋の季題ということになっている。漂鳥の多くが夏の間山奥深く棲み、秋になると人里近く現れて、人目につきやすくなることから「小鳥来る」の季題が成立、それに伴って個別の「小鳥の名前」のほとんども秋の季題となったものであろう。そして春には「囀」という求愛行動が人々の興味を引き、個別の「鳥の名」は「百千鳥」という不思議な括られ方をする。

 さて「山雀」は人に懐くことでも小禽類中、特異な鳥かもしれない。明治神宮の内苑あたりでも、ポケットから向日葵の種だのピーナッツだのを小出しにして「山雀」の歓心を買っている「小父さん」をよく見かける。山雀たちは、小父さんが掌に置いたピーナッツを咥えては飛び去り、何処かに隠しては、また飛来して「おねだり」する。世間であまり慕われることのなくなった「小父さん」たちにとっては、自分を疑うことなく掌に止まる「山雀」は可愛くて仕方がない。さてしばらく「餌のある限り」は睦み合っていた「山雀」と「小父さん」。餌が無くなって、「小父さん」が立ち去ると、極々自然に「山雀」もあたりから見えなくなったというのである。微笑ましいような、ちょっと悲しいような、不思議な味わいのある一句である。

 虚子に〈山雀のをぢさんが読む古雑誌〉という昭和二十五年の句があるが、こちらは「山雀」がお御籤を引いてくる芸。鎌倉の八幡様の境内に毎日出ていたのを筆者も憶えている。たしかに何時も暇そうにして「古雑誌」など読んでいた。掲出句とはまるで違う世界の句ではあるが「山雀」と「小父さん」という言葉は共通していて、どこか「淋しい」感じも通じている。  (本井 英)

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