「上五」の字余りの続き。「て」で余らせている例。
海に入りて生れかはらう朧月 虚子
逡巡として繭ごもらざる蚕かな 々
草に置いて提灯ともす蛙かな 々
コレラ怖ぢて綺麗に住める女かな 々
烏飛んでそこに通草のありにけり 々
船にのせて湖をわたしたる牡丹かな 々
一を知つて二をしらぬなり卒業す 々
これらの例は、「上五」を字余りにしなくても、何とか意味は通じる句ばかりだ。
例えば第一句目、「海に入り」とすれば字余りにならない。しかも一句の意味には殆ど変化がない。
以下それぞれ「逡巡と」・「草に置き」・「コレラ怖じ」・「烏飛び」・「船にのせ」・「一を知り」とすれば字余りではない。そして筆者も含めて読者諸兄姉も、実際の作句の場面では、敢えて「字余り」の道は選ばずに、「定型」で治定されるのではあるまいか。
では何故か。「通草」の句を除いては、「中七」と「下五」の間に大きな「切れ」がある。勿論「字余り」にしなくても、そこに「切れ」はある。しかし「て」を加えて「字余り」にすることによって、「中七」、「下五」間の「切れ」は強調されて、「下五」のインパクトが増す。
つまり「草に置き提灯ともす」でも内容は変わらないが、「て」と加えることで、「草に置いて」・「そうして」・「提灯をともす」と、一連の人間の所作がありありと描かれて来るのだ。
その人間の姿を包むように「蛙」の鳴き声が立ち上がってくる。此処にいたって「蛙かな」の「かな」の切れ字の面目が立つ仕組みだ。「字余り」の「て」がないと、うっかりすると「蛙」が動作主にも取られかねない。人間の行動と「蛙の声」の対立を際だたせた功績は「て」の一文字と言えるだろう。
同様の例は「コレラ」でも同じことで、「女かな」という「下五」がはっきり独立的に見えてくる。文法的には「綺麗に住める」の「る」は存続の助動詞「り」の連体形だから「住んでいる女」という具合に比較的強固な連体修飾関係にある筈なのに、一句全体のリズムとしては「上五」「中七」で一塊り、 其れへの対立項として「下五」が配置される。
全く同様なことは「船にのせて」でも言える。
おそらく琵琶湖だろうが、湖を横切る船の姿が鮮明に見えてくるではないか。「牡丹かな」への連接の仕方まで同じだ。
こうなると一つの「おきまりの」表現法とさえ言えそうだ。
一方、「一を知って」は若干事情が異なる。こちらは「一を知って十を知る」という慣用句を少し変形させて「二を知らぬ」と機転を利かせた表現。つまり「て」は慣用句を想起させるための大切な「仕掛け」なのだ。「一を知り」とは言えない訳である。 (つづく)