花鳥諷詠心得帖26 三、表現のいろいろ-2-  「 字余り(上五)」

「上五」の字余りの続き。「て」で余らせている例。

海に入りて生れかはらう朧月   虚子

逡巡として繭ごもらざる蚕かな   々

草に置いて提灯ともす蛙かな   々

コレラ怖ぢて綺麗に住める女かな   々

烏飛んでそこに通草のありにけり   々

船にのせて湖をわたしたる牡丹かな  々

一を知つて二をしらぬなり卒業す   々

これらの例は、「上五」を字余りにしなくても、何とか意味は通じる句ばかりだ。

例えば第一句目、「海に入り」とすれば字余りにならない。しかも一句の意味には殆ど変化がない。

以下それぞれ「逡巡と」・「草に置き」・「コレラ怖じ」・「烏飛び」・「船にのせ」・「一を知り」とすれば字余りではない。そして筆者も含めて読者諸兄姉も、実際の作句の場面では、敢えて「字余り」の道は選ばずに、「定型」で治定されるのではあるまいか。

では何故か。「通草」の句を除いては、「中七」と「下五」の間に大きな「切れ」がある。勿論「字余り」にしなくても、そこに「切れ」はある。しかし「て」を加えて「字余り」にすることによって、「中七」、「下五」間の「切れ」は強調されて、「下五」のインパクトが増す。

つまり「草に置き提灯ともす」でも内容は変わらないが、「て」と加えることで、「草に置いて」・「そうして」・「提灯をともす」と、一連の人間の所作がありありと描かれて来るのだ。

その人間の姿を包むように「蛙」の鳴き声が立ち上がってくる。此処にいたって「蛙かな」の「かな」の切れ字の面目が立つ仕組みだ。「字余り」の「て」がないと、うっかりすると「蛙」が動作主にも取られかねない。人間の行動と「蛙の声」の対立を際だたせた功績は「て」の一文字と言えるだろう。

同様の例は「コレラ」でも同じことで、「女かな」という「下五」がはっきり独立的に見えてくる。文法的には「綺麗に住める」の「る」は存続の助動詞「り」の連体形だから「住んでいる女」という具合に比較的強固な連体修飾関係にある筈なのに、一句全体のリズムとしては「上五」「中七」で一塊り、 其れへの対立項として「下五」が配置される。

全く同様なことは「船にのせて」でも言える。

おそらく琵琶湖だろうが、湖を横切る船の姿が鮮明に見えてくるではないか。「牡丹かな」への連接の仕方まで同じだ。

こうなると一つの「おきまりの」表現法とさえ言えそうだ。

 一方、「一を知って」は若干事情が異なる。こちらは「一を知って十を知る」という慣用句を少し変形させて「二を知らぬ」と機転を利かせた表現。つまり「て」は慣用句を想起させるための大切な「仕掛け」なのだ。「一を知り」とは言えない訳である。 (つづく)