花鳥諷詠心得帖1 一、用意の品 「言葉」

俳句を始めるについて用意したい「品」は幾つかある。

まず筆記用具。 文字以前の文芸の時代には必要無かったであろうが、文字媒体によって文芸を安定的に楽しむ今の時代にあっては筆記用具は不可欠のアイテムである。
ところで早速脇道に逸れて恐縮だが、筆者は近年「文字」以前の「文芸」という世界を空想することが多い。
人類が「文字」という道具を得て、「言葉」が時間と空間の制約を乗り越え、遠く離れた人々へ、あるいは何日も何年も後の人々へ伝えられるようになってから、およそ五千五百年ほどが経っている。 随分長い時間のようにも思えるが、人類の歴史の中で考えれば、ほんの最近の出来事とも言える。 それ以前の言語生活は「文字」の無い毎日。
それでも人々は一定の社会生活を営み、家族は睦み合い、男女は愛し合っていたであろう。 いま「愛し合って」と書いたが、例えば男が愛する女を讃える時、「君は美しい」でも 充分意志は通じるであろうが、「君は花のように美しい」とも、「君は赤い茨の花のように美しい」とも、「君は赤い茨の花びらが、夜露を宿して微かに揺れるように美しい」とも言えた筈だ。
人を讃える事も、神を讃える事もあったろう。 即ち「文芸」は文字なんど無くても人々の言語生活を華やいだ豊かなものにしていたのだ。
これらは所謂「口承文芸」とよばれるが、この形が何万年も続いていたのだ。 『万葉集』をよく日本文学の「原点」のように言うが、そんなことは全く無いので、 あれは偶々千二三百年前の作品あるいは、その時点まで伝承されていた「文芸」を筆録したに過ぎない。 我々の「日本文芸」の「原点」は、つまり全く判らない。 例えば「三内丸山」でどんな伝承が語られ、どんな民謡が歌われていたか全く判らないように。
次回からは、ちゃんと「用意の品」の話を。