杉原祐之句集『先つぽへ』(2010年4月)

杉原祐之さんの第一句集「先つぽへ」(ふらんす堂 2010年4月)


特集 杉原祐之 第一句集『先つぽへ』 (『夏潮』2010年9月号)


            永田 泰三

 インターネットとは便利なもので、杉原君の句集に対する各人の評価を読むことが出来る。特に興味深いのは、夏潮以外の俳人達の評価だ。杉原君自身はそれらの評価を以下の様にまとめる。(彼のブログより引用。)

 「迷句集『先つぽへ』は、『全部一物仕立て』(二句一章が二三句しかない)。上記と連動ですが、『かな』『けり』ばかり。一本調子。『言い放っしの句多々あり』『ふてぶてしい』と言った評価を頂戴しているようです。」

句集より「や」で切られている句を抜き出してみると、

山鉾や狭き路地からぬつと現れ

かなかなや温泉街の坂を下り

成人の日や働き口の無き島の

懐に死亡届や花の冷え

微風や代田鏡に皺生れ

レーダーや小雪のやうな雪女

ゴルフ場の大看板や芋畑

狼や山の神々強し頃

以上の八句である。この中でもいわゆる取り合わせの句は、「成人の日や」「懐に」「レーダーや」の三句のみである。そして、何よりも注目すべきは、これらの句においても季題が中心、あくまで季題からの発想という彼の姿勢であろう。

 杉原君は第一句集『先つぽへ』の名前の由来を、後書きに次のように述べる。「『花鳥諷詠』の道を、類句類想の沼に苦しみもがきつつ、例え一握でもその沼の先に新しい砂を積んでゆくことが出来ればと思っている」と。

蕾からポピーの色のはみだせる

風鈴の短冊回りつつ鳴らぬ

風摑むまでふらつけるヨットかな

雲雀落つ土に引つ張られるごとく

蜆汁険しき顔をして啜る

仮名書きに記す海女の名洗面器

季題をしっかりと見つめ写生をする。これが、私たちの俳句である。杉原君のこの句集を貫いているもの、それはまさにこのことであろう。彼の句集は、私たちの方法には、まだまだ「先」があることを示してくれている。彼と共に我々もまた、花鳥諷詠のさらなる「先つぽへ」と進んでゆきたい。


 叱られに会社へ戻る秋の暮      祐之

 祐之さんの入社は巻末の略歴から平成十四年で掲出句は換算するとサラリーマン生活七年目の作品である。句集『先つぽへ』の他の句からも出張の多いお仕事の様だ。

 会社で七年目ともなると上司の命令で責任を伴う仕事が増えてくる。仕事の内容は判らないが実直なお人柄から準備万端で出かけられたのだろう。一日がかりの外勤か、誠心誠意仕事をしたが思ったような成果が出せなかった。あるいは決定的な失敗をした。若さ故に真っ直ぐで機微に富んだサラリーマンのようには未だいかないのかも知れない。この結果では会社で叱られるに決まっている。外はもう暮れていると気づくと益々気が重い。しかしこれから報告に会社へ戻らねばならないのだ。

 この句が心に響くのは季題の「秋の暮」ともう一つ「怒られに戻る」のではなく「叱られに戻る」と叙した所である。「怒る」は単に腹を立てる事だが「叱る」には戒める

つまり教え諭す意味が含まれ、上司が常々「叱って」いる事を若い会社員の作者は判っている。単に反発しているのではない哀れさがある。的確な言葉の選択に依り含蓄ある句に成し得た。夕暮れに憂鬱な気持ちで会社へ戻る若いサラリーマンの孤独な後ろ姿が黒い影となり浮かんでくる。

こんな情景を季題の秋の暮がいかんなく語っている。(前田 なな)


蜻蛉の目覚めの翅の重さかな      祐之

 歳時記の上では、蜻蛉は秋。東京では初夏から秋へ、元気に飛び回っている。ヤンマなどをカメラに収めようと思うと、いつまでも空中を遊弋し、こちらが先にくたびれて止めてしまうことになる。ただそれも太陽の高い昼間の話で、体温が下がる朝は動くことができない。季節が下れば翅の露を光らせて午ごろまでじっとしている蜻蛉を見ることもあるだろう。陽を浴びてエネルギーが体に満たされてくると飛び立つためのシークエンスに入ってくる。作者はそんな蜻蛉の小さな動き出しを逃さずに捉えている。この句についての私の印象として三つほどのポイントがある。まずは詠みぶりが静かである点、つぎには要素が対象物の蜻蛉一つである点、さらには抽象化あるいは具象の希薄化が強いという点である。作者の句には日ごろ接しているが、比較的具体的な景が見えるものが多いように思える。地名などを想像しながら楽しく読ませてもらっているが、この句は蜻蛉という強さを属性として持つ対象を目の前にしながら、前面に出し過ぎず抽象性の高い表現がなされているように思える。作者のひとつの境地なのであろう。

 初句集の刊行、新しい家族での生活…大きなイベントがターニングポイントになるのか、息子ほどの年齢、しかし俳句の世界では大先輩の作者の今後の活躍が楽しみである。  (柳沢 木菟)


ひと鍬に土生き返る春田かな      祐之

季題は春田。稲刈の後の長い冬の間、手を入れられることがなかった田に鍬が入れられる。かまわれることなくそのままにしておかれた田の表面は白く乾いているに違いない。その乾燥した土に鍬が入れられるや、黒くやわらかな土が中から掘り出され、眠っていたかに見えた春田がまた活力を取り戻す。この句はそんな春田の再生の瞬間を、鍬を入れた作者の喜びと共に捉えている句であり、春という生命力にあふれる季節にふさわしい、活力を感じさせる句であると思う。

 「鍬を入れた作者」と前述したが、では作者は春田の持ち主か?この句を農夫が鍬を入れる所を第三者的に作者が目にしたと解釈することはできるかもしれない。しかし、やはり作者自身が鍬を入れた際に、その土の黒さややわらかさを実感していると考えたい。作者は春田に勢いよく鍬を振り下ろす。それをきっかけに春田が息を吹き返したように感じ、作者がその時に手に感じた感覚は全身に広がるのである。身体全体で春の訪れを感じている作者の姿が想像される。

春の喜びを感じさせる一句であると思う。(西木 麻里子)


 叱られに会社へ戻る秋の暮      祐之

句集『先つぽへ』には好きな句が盛り沢山である。上手い句も、唸らせる句も沢山ある。ここに掲げた句はどんな句だろう。私も作者と同じサラリーマン。些かのペーソスを感じ、「そうだよね、そういうこと、あったあった」と共感する句なのである。

「会社」って何の為にあるのか。世の中の役に立つ為にある。直接・間接に生活者の役に立つ仕事をさせるのが会社だ。会社がちゃんと役に立てば、利益という正当なお礼が貰えて、そのお金で次にまた役に立つ良い仕事をする。良い仕事をさせる為に人を育てるのも会社だ。お金を儲ける為に会社があるというのは目的の順序が違うのだ。と、三十年以上会社に勤めている私は思う。松下幸之助氏は、「松下電器は人を作っているところで、しかる後に電器製品も作っております」と語ったという。綺麗事だけを言うつもりはない。理不尽な事に対処したり、人の嫌がることをやらねばならぬのも会社の仕事。会社は一見非人間的な組織にも見えるが、人間の性(さが)と性(さが)のぶつかり稽古が繰り広げられる、ある意味でとても人間臭いところだ。「おい、仕方ないよ、とりあえず先ず叱られて来ようぜ、俺も一緒に謝ってやるからさ」、ためらう後輩を促して会社へ連れて帰る秋の日のひとこまであろうか。(藤森 荘吉)


 代田から植田へ水の走り落つ      祐之

 祐之さんは、自他共に認める「棚田オタク」である。棚田と聞くと日本列島津々浦々、どこへでも出かけていくらしい。彼のブログを見ると、出張なのか旅なのか、とにかく日本中を飛び回っているが、棚田・棚畑を見て「先人のご苦労を思うと涙が止まりませんでした」といってみたり、元日に棚田を訪れたりしている。

 掲出句には、『夏潮』初の稽古会、石の湯 三句」と詞書がついているが、この句は「余り苗魔除の如く置かれたる」と並び姨捨の棚田で作られたもの。

「棚田こそ。人類の叡智の結晶と言えます。」との作者自身の言葉にもあるように、棚田は、限られた土地・稀少な水を最大限活用するために、その土地の地理・水理を知り尽くした人々が、何年・何代もかけてこつこつと築き、継承したもの。水は地球上どこでも重力に従って上から下へと流れていくが、棚田では、そこに人間の知恵が加わり、一枚一枚の田のわずかな落差を活用して、田から田へと、水が廻されていく。用水は山から直接であるから水は冷たく、水温管理も難しい。時間をかけて、田から田を巡った水が流れ込む下のほうから田植えに適した水温になっていくのだろう。掲出句はそういう情景を捉えたものであり、作者の棚田への思いが凝縮された一句であろう。(原 昌平)


スコップに立方体の雪卸      祐之

 東京人の祐之さんにとっては非日常的であろう「雪卸」という季題。雪深い土地へと旅をされたのか。

 雪国、豪雪地帯と呼ばれる地方では、降り積った屋根雪の重さで建物が潰れてしまわぬように「雪下し(あるいは雪卸)」をしなければならない。私の住む富山でも冬にはよく見かける光景である。雪は積もるほどに少し融けては凍り、硬く締まり重くなってゆくのである。

 近頃は、暖冬の影響や建物の構造の変化で以前より回数が減ったとはいえ、高所での滑りやすい作業の為、命の危険が伴う重労働には変わりがない。屋根に上り足場を確かめつつ軒先から順に、重いスコップで切り出すように雪を下ろしてゆくのである。

 初めのうちは漠然とその作業を眺めておられたのだろうが、次第に雪を切り出す様子にズームアップされてゆく。

 そしてそれを「スコップに立方体」と詠んだことで、スコップに掬いとられた雪の深さ、塊の大きさが見える。スコップを雪に突きたてる時、掬いとる時の手応えまでもが感じられる。

 更には、その重労働を黙々とこなす雪国の住人になって、まるで自身が「雪卸」をしているかのようにさえ思われてくるのである。(磯田 和子)


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