花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第101回 (平成18年9月8日 席題 蚯蚓鳴く・女郎花)

秋祭跳ね玉ひでの鳥料理
 これ、面白いのは江戸といったって、山王さんとか神田明神のような、都会都会したお祭と違って、実は江戸にも字があって、その字の秋祭が残っている、その感じが出ていると思いました。  
濡れそぼちつゝへこたれず女郎花
 主観的な句をお作りになって、そうですか。黄色のあの明るさに「へこたれず」という気分がなるほどあるもんだなと思いました。  
山荘の径秋蝶の通ふ径
 元の句、「山荘の小径秋蝶通ふ径」。掲句のようにすると、表現として整う。原句がどうしていけないかというと、「小径」と「径」とが照合しないんですよ。字を合わせる為に、「小径」と「径」にしたような印象もしてきて、それぐらいだったら掲句のようにすれば、リズムも合うし、西洋の詩にあるような脚韻の効果というのが出てきますね。日本語では脚韻の効果よりも頭韻の効果の方が強いんですが、この場合は脚韻の効果、ライムですね、が出てくると思います。  
浅間山間近に在りて蕎麦の花
 こらは、「さいでございますか。」なんですけれど、蕎麦の花を見ていて、ぱっと見上げたら、浅間山がずいぶん近い。という感じがして、ある気分があると思う。  
行く道を覆ひ尽して乱れ萩
 どういう所なんでしょうね。それは、たとえば鎌倉の萩寺、宝戒寺みたいな所で、乱れ萩をわざとほってある。それが一つのお寺のやり方みたいなんで、皆、それを分けて入ってください。といったような、覆い尽くしている。萩を分けて進むことの心地よさが、なんともいえない日本人の楽しみですね。
野分後庭一面の明るさよ
 これも素直でいいと思いますね。「庭一面の明るさよ」というのは、外に言いようがないな。野分後のばらばらばらばら桜の葉などが落ちたりして、妙に光りの通しがよくなってしまう、そんな野分後の気分が出ていると思います。  
しばらくは一人暮しに蚯蚓鳴く
 「七年目の浮気」みたいな…。しばらくかみさんが里に行っていないんで、わるさでもしようかと思うんだけれど、なかなかそうもいかないんで、しょうがないなと思っていると、蚯蚓が鳴いたような鳴かないような。飲んで寝ちまえという感じがしてきて、健全な一人暮らしだろうと思いました。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第100回 (平成18年9月8日 席題 蚯蚓鳴く・女郎花)

女郎花の中に滝への道しるべ
 これはさっき言った女郎花の咲きざまがよく出ています。大きいです。一メーター五十とか、そのくらいの高さになりますし、大きくなります。だから咲き交わす前は全面出ていた道しるべなんだけれど、女郎花がぐうーっと枝を伸ばしてきてしまったので、女郎花の中に入り込んでしまって見にくい。という感じが、よく出ていますね。  
赤蜻蛉タンゴの如く折り返す
 これ、うまかったですね。賛同者、多かったですね。なんと言うんですか。タンゴ、ひょっと回転して、ひゅっと向きが変わる。あれは何ともいえない。たしかに蜻蛉もふうと反対に向くことがありますね。風上に向いていた蜻蛉が、ひゅっと後ろを向いた瞬間にしゅっと流れていく、そんな場面をいくらも見たことがあるんですが、なるほどそれをタンゴと捉えられたところがおしゃれだなと思いました。  
秋来ると地図を広げてゐたりけり
 これも自の句か他の句か悩ましいところですね。このままだと、他の句でしょうね。誰かが地図を広げている。「何しているの?」「地図見ているんだよ。」「へー。」「どこかへ行きたいと思ってるんだ。」という感じの句でしょうね。  「秋来ると地図を広げてをりにけり」「広げて見てをりぬ」だと自の句ですね。掲句だと(ゐたりけり)、他人の句。そうすると誰かが後ろから覗き込んでいる感じがしていると思いますね。  
かなかなと名残をさめる夕べかな
 うまいですね。「かなかなと名残をさめる」、名残鳴きを鳴き納めたということですが、「名残をさめる」という言い回しをなすったところが、工夫の跡があって、すばらしいですね。  
芋虫や触れんとすれば転げ落ち
 元の句、「芋虫やさわらんとして転げ落ち」。「さわらんとして」だと、触ろうとした人が落っこちてしまうみたいな。「触れんとすれば」だと、自分が触ろうとしたら、芋虫が転げ落ちたとなる。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第99回 (平成18年9月8日 席題 蚯蚓鳴く・女郎花)

傘のごと葉をかざしをり葛の花
 これはある意味で見立てです。葛の葉と葉の隙間から見えた。ちょうど葛の花が葉を傘のようにしてかざしているようにも見えた。ま、これは見立ての句なんですが、いやみはないですね。  
明治座の高提灯や風は秋
 いかにも浜町河岸の大川の風。明治座の高提灯というだけで、「風は秋」がただの風は秋ではなくて、大川の川風が秋になった。とそういわれると、夏の思い出、花火の思い出も終わって、どんどんこれから秋が深まっていくといった、大川端の情緒がよく出ていると思いますね。  
民宿の足湯の庭の女郎花
 この句のうまいのは、女郎花という花のもっている、明るさがよく出ていると思う。民宿で流行だから足湯をやろうというので、割合粗末な庭なんでしょう。足湯をやるんですからね。粗末な庭なんだけれども、そこに女郎花が無邪気に咲いているという感じがしてきましたね。  
蚯蚓鳴く国分尼寺跡とぞ聞ける
 国分寺というのは、聖武天皇が全ての国に作って、国分尼寺もそうですが、国分寺はそう「あはれ」はないんですが、下野の方の国分尼寺跡へ行ったことがあるんですが、「あはれ」がありますね。いくら天皇陛下の命令だからっていって、尼さんばかりの寺を日本全国に作ったというんだから、ずいぶん強引な…。宗教ですから、相手はね。そうするとそこに行きたくはなかったのに、食べられないし、尼になって飛ばされて、武蔵の国の国分尼寺にいた女。を考えると、「あはれだなー。」そりゃ寂しくて寂しくてほんとうは上方に帰りたいんだけれど、そうはいかないや。と思って、しーと蚯蚓を聞いていたこともあるかなと思うと昔の女の尼になった者のあはれがありますね。この時代の尼というのは、ある意味では口減らしの部分がありますね。貴族といっても、大したことない者が、女の子ばかりなので尼さんにしてしまって、口減らしと、お上に好かれようと思ってやるんだけれど、哀れな女の一生が見えてきて、面白い句だと思いましたね。  
モーツァルトの調べ親しき夜なべかな
 この句のうまいのは、夜なべが一人だっていうのがわかりますね。モーツァルトをかけて、好きな曲をかけて、仕事がどんどん進んでいく。「ああ、遅くなっちゃったな。」と思いながらやっている。モーツァルトの調べというので、一人だなというのがわかっていいなと思いますね。一つの灯の下で夜なべの仕事をしているということでしょう。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第98回 (平成18年9月8日 席題 蚯蚓鳴く・女郎花)

新涼の小間に真白き芙蓉かな
 うーん、どう解釈するかしらね。この句、厳密にいえば「新涼」と「芙蓉」と季重ねですが、「新涼」がはるかに強い季題ですから、芙蓉は季題にならない。「新涼」が季題。その新涼の小間に白い芙蓉が活けてある。色っぽいようですが、芙蓉だから、色っぽくはない。清潔な感じ。季題が心を語るというのは、このことでしょうね。季題に意を託している。季題が上品な季題「新涼」ならば、上品な句になる。
水澄むや金魚大泡ひとつはき
 これも季重ねです。「水澄む」という秋の季題と、「金魚」という夏の季題が重なっています。これも「水澄む」がひじょうに強いですから、金魚が夏の季題にならないですね。夏の間あーっとしていた金魚が、水の澄む秋になってみたら、ずいぶん元気よく大きな泡をぼかーんと吐いた。金魚があくびするような…。ああ、夏は大変だっただろう。秋になって涼しくなったねと金魚に語りたくなるような、作者の気持ちが自ずから出ています。
近藤も土方も石一葉落つ
 なかなか洒落た表現ですね。近藤も土方ももう墓石になってしまった。そして今、秋の初め、一葉落ちてきた。「一葉落ちて天下の秋を知る」というのが「桐一葉」の大きな言い回しですが、これは秋を知って、それからまた百何年たってしまった。ということで、「近藤」「土方」という言い捨てもいいし、これもまた三多摩の方の感じがあっていいと思いますね。  
山荘の一輪挿しの女郎花
 これはひじょうになれていた句で、無駄がない。隙がないですね。しかも女郎花というのは割合大きなものですから、一輪挿しに入れる場合には、ほんの一部をふっと切った感じで、女郎花の風情はあまり出ていないんでしょうね。ただ「あ、女郎花。どこで?」「それね、裏の空き地の所にあったのよ。」といった会話も聞こえてくると思います。これは一輪挿しという小ささと本来女郎花は大きく咲き広がるものだというずれが、かえって面白い印象を与えていますね。  
鶏頭をけばけばしとは疲れ哉
 この句のいいのは、中七から下五にいくとこの断絶ですね。「けばけばしとは」で、大きなポーズがあって、「疲れ哉」「私疲れてるのかしら?」といういい方でいけるという強引な表現なんですが、俳句だとこれがわかるんですね。なかなかこれはうまい。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第97回 (平成18年9月8日 席題 蚯蚓鳴く・女郎花)

にぎやかにはるか利尻の鰯雲
 利尻・礼文という島がありまして、稚内から西にあるんですが、けっこう近く見えて、稚内飛行場に着くと、地続きかと思うんですが、サロベツ原野あたりから見ると、途中に海がある。ともかく利尻富士というのはきれいな山なんですが、はるかな利尻の西空いっぱいに鰯雲がかかってをった。というので、「にぎやかに」というところに、ある気分があると思いましたね。  
点滴の密かに落ちて虫の鳴く
 季題は「虫」です。患ってをられて、点滴の一時間とか二時間とか長いものがありますけれども、けっして急ぐことなく点滴が落ちていく。それをじーっと見ていると、虫が自分を励ましてくれるように、りーんりーんと虫が鳴いてをった。ということで、夜になって見舞客も来なくなって、点滴と自分しかそこにないという、病と闘う寂しさがよく出ていると思いました。  
そこだけに風吹いてをり秋桜
 これはたいへん賛同者が多かったので、加えることはありませんが、厳密に言えば嘘なんですね。どこも吹いているはずなんだけれど、それをそう見えたということで、これは表現なんですね。現実を正確に言おうとしているんでなくて、見えたとおりに、ある意味では主観に委ねるということで、やり方としてはひじょうに俳句的で、よくわかる句だなと思いました。  
目一杯身を伸ばしたる蝸牛かな
 面白いですね。なめくじだと伸ばしたとかわかるんですが、実は蝸牛、かたつむりも、ぎゅーっと伸びた時には、伸びるんですね。それを「目一杯身を伸ばしたる」とおっしゃったところが、見てると。いかにも見てるという感じがして、いい句だなと思いました。  
梨園の入口は別長屋門
 大体いなかの長屋門のあるような大百姓のところに、梨園もあって、きっと観光梨園になっているんでしょう。受付はあっちですよ。なんて言われて、主の庄屋みたいな家はここにある。という、いかにも、江戸の郊外の昔からの豊かな農村地帯という感じがしてくると思いました。