跼まりて子はなほ小さし椎拾ふ  藤永貴之

 季題は「椎の実」。「椎」と言えば『源氏物語』「宇治十帖」の「椎本」を連想される方も少なくないであろう。〈立ち寄らむ陰とたのみし椎が本むなしき床となりにけるかも〉と宇治の八の宮を悼んだのは薫。「椎」は、古代から「救荒食」の代表として「頼み甲斐」のあった木なのである。その印象が、「たのむ」という言葉と結びついて、文芸の世界の連想にまで定着していたと考えてよいだろう。さらに、西行の〈ならび居て友を離れぬ子がらめの塒に頼む椎の下枝 西行〉の「子がらめ」は「子雀」。雀たちにとっても椎は「頼む」に価する木として讃えられていたのであり、その西行を慕っていた芭蕉にも〈まづ頼む椎の木もあり夏木立〉がある。この句からは湖南「幻住庵」での暮らしに臨んだ芭蕉の、芸術に身を捧げんとする、ひたむきな心持ちも伝わってくる。

 「跼まり」は「かがまり」、「子」がしゃがみ込んでいるのである。大人と違って、膝も腰も小さく畳み込んだ子供の姿は本当に「小さく」見える。

 「なほ」は必ず「でも、やっぱり」と約すのが古典解釈上の「きまり」。

 従って一句を敢えて口語訳すれば、「すこし離れた処に、しゃがみ込んで椎の実を拾っている我が子の後姿を見るにつけ、でもやっぱり、この子はまだ小さい、と思わずにはいられない。」となる。

 動物の世界の多くでは子供を育てるのはもっぱら母の役で、父はまったくその任に与らない場合も少なくない。熊や虎はその代表で、賢治の「なめとこやまの熊」に出てくる「母熊」と「子熊」の会話は、私たちの心を締め付けるほどに、母子の信頼と愛しさに満ちている。一方、ほとんど顔見知りではないはずの虎の「父子」の成長後の邂逅の場面でも「それと判る」という報告がされている。「父には父の」、掛替えのない「子」への、何ものにも代えがたい愛情が深く深くあるのである。ましてや人の世では言わずもがな。その子を、やや離れて見つめるにつけ、「子はなほ小さし」との思いが湧き上がってくる。

「子」にとって「頼みの存在」であるという自覚が自ずから「椎の実」という季題に託されたと説く向きもあろうが、それは順序が逆で、「椎の実」の持つそうしたメッセージを無意識のうちに感得した詩人の心に、一句の世界が拡がったとみるべきである。

 花鳥諷詠・客観写生では「人生」が読めぬ、というようなことを説く人々もいる。この句などは、それらの人々の蒙を啓くに足る、第一級の作品であると確信する。(本井 英)

月命日カーネーションを束にして    羽重田民江

 季題は「カーネーション」。母の日の贈り物として使われることが多いが、初夏の花としてもさっぱりとして好感の溢れる花である。「月命日」は毎月ごとの「命日」。毎月、墓参を欠かさぬ人もあるし、仏壇で懇ろに経を読むという人もある。

 「仏様」の生前、「母の日」には必ず「カーネーション」の贈り物を欠かさなかった作者。月命日の「花」には生前を思い出して、同じ「カーネーション」の花束を供花として捧げたというのである。作者にとって実の母であったのか、それとも義理の母であったのかは分からないが、しみじみとした「深い情」が伝わってくる。(本井 英)

石段を上がればありし茅の輪かな   藤永貴之

 季題は「茅の輪」。陰暦六月末の「夏越の祓」に関連したもので「菅貫」、「菅抜」という傍題もある。歳時記的には六月末のものとなるが、原則的には十二月の末にも同じことがあって然るべきで、実際に大晦日に「茅の輪」を立ててある神社も多くある。多くの解説書は「茅の輪くぐり」を厄除けと解説するが、筆者は「再生」を演じているものだと考えている。

 さて一句の味わいどころは「石段を上がればありし」。つまり「石段」の下にいた時には見えていなかった「茅の輪」が「石段」を上がってみたら「あった」というのである。そのことから毎年「夏越の祓」のために参拝している神社ではないことも判る。

 たまたま旅先で詣でた神社で、長い石段を登って丘の上の大前にでたところ「茅の輪」があった。そこで作者は、ああ、もう「夏越の祓」の頃となっていたのだと知ったのであろう。(本井英)

夏蝶の翼に青きブーメラン  前北かおる

 「夏蝶」は、春の「蝶」とも、「秋蝶」とも「冬蝶(凍蝶)」ともどこか違う、生命力にあふれ、ときには猛々しい感じすらある。

 作者はその「夏蝶」(おそらくはアオスジアゲハであろう)を凝視したのであろう。頭・胸・胴・触角・脚・翅と目を凝らして見つめていると、ふっと黒い羽根の中を彎曲しながら流れている「青い」筋が見えてきた。その筋を見つめるとその筋は、「七・三」のあたりで大きく曲がっている。さらに見つめているうちに、「何かに似ているなあ」と思えて来た。その次の瞬間「ブーメラン」という言葉が、胸奥の「言葉の箱」の蓋を開けて、沸きあがってきたのである。

 「花鳥諷詠」とは造化の神が一瞬見せてくれる、この世のさまざまの季題の「本当の姿」を五・七・五の調べに乗せて詠いあげること。その境地に至る方法はただ一つ、自分の「主観」をどこまでも抑えて、出来る限り「客観的になって(完全に客観的になることは出来ない)」対象を凝視することである。

 「ブーメラン」という言葉は、その形状からのみ「識域上」に沸きあがったのではない。そこには「ブーメラン」が野山の空気を切って翔る姿も重ね合わされているのである。そのことによって「夏蝶」の自信に満ちた飛翔の姿までが表現されてくる。 (本井 英)

野遊のリード伸ばせるだけ伸ばし 井上基

 季題は「野遊」。「踏青」、「青き踏む」という季題もあるが、それらより時間的にも空間的にもやや広い感じがある。「リード」にはさまざまな意味があるが、ここでは犬を繋ぎ止める紐の謂い。近年の「ことば」である。まだ『広辞苑』には登録されていない模様だが、電気の「引き込み線」・「導線」から援用されたものであろう。さらに新聞記事などの「導入部分」の意味でも使われる。また英語でのスペリングも発音も異なるが、簧(した)の意味の「リード」も日本語の中では使われる。これはクラリネットなどの音源の振動を作るもの。「リード楽器」などともいう。

 話は変わるが、最近ある句会で「ホーム」という言葉を使った句が出て、それを筆者は鉄道の「プラットホーム」ととって選句し、解説もした。ところが仲間の一人が「老人ホーム」の意味でも解釈できるのでは、と異議を唱えられた。その句に関しては、確かにそういう解釈も成り立つ。なるほどと思うと同時に、「ことば」の面白さを思った。

 もちろん前後の言葉の関係から、ほとんどの場合正しく伝わるのであるが、中には微妙なケースもあるものである。

 俳句に使う「ことば」に関して、特別に「規則」があるわけではない。その時代、その時代に「無理なく伝わる」言葉として扱えばよいのであろう。

 さて「リード」の句。近年は愛犬家のために、短くすれば一メートルくらいでも、伸ばせば最大十メートルほどにもなるものが売られているようである。上天気の「野遊」。作者の気持ちも晴れ晴れ、そんな主人の意向を察して犬も上機嫌なのである。「伸ばせるだけ伸ばした」「リード」の先の犬の勢いまで見えてくる。(本井 英)