石段を上がればありし茅の輪かな   藤永貴之

 季題は「茅の輪」。陰暦六月末の「夏越の祓」に関連したもので「菅貫」、「菅抜」という傍題もある。歳時記的には六月末のものとなるが、原則的には十二月の末にも同じことがあって然るべきで、実際に大晦日に「茅の輪」を立ててある神社も多くある。多くの解説書は「茅の輪くぐり」を厄除けと解説するが、筆者は「再生」を演じているものだと考えている。

 さて一句の味わいどころは「石段を上がればありし」。つまり「石段」の下にいた時には見えていなかった「茅の輪」が「石段」を上がってみたら「あった」というのである。そのことから毎年「夏越の祓」のために参拝している神社ではないことも判る。

 たまたま旅先で詣でた神社で、長い石段を登って丘の上の大前にでたところ「茅の輪」があった。そこで作者は、ああ、もう「夏越の祓」の頃となっていたのだと知ったのであろう。(本井英)

夏蝶の翼に青きブーメラン  前北かおる

 「夏蝶」は、春の「蝶」とも、「秋蝶」とも「冬蝶(凍蝶)」ともどこか違う、生命力にあふれ、ときには猛々しい感じすらある。

 作者はその「夏蝶」(おそらくはアオスジアゲハであろう)を凝視したのであろう。頭・胸・胴・触角・脚・翅と目を凝らして見つめていると、ふっと黒い羽根の中を彎曲しながら流れている「青い」筋が見えてきた。その筋を見つめるとその筋は、「七・三」のあたりで大きく曲がっている。さらに見つめているうちに、「何かに似ているなあ」と思えて来た。その次の瞬間「ブーメラン」という言葉が、胸奥の「言葉の箱」の蓋を開けて、沸きあがってきたのである。

 「花鳥諷詠」とは造化の神が一瞬見せてくれる、この世のさまざまの季題の「本当の姿」を五・七・五の調べに乗せて詠いあげること。その境地に至る方法はただ一つ、自分の「主観」をどこまでも抑えて、出来る限り「客観的になって(完全に客観的になることは出来ない)」対象を凝視することである。

 「ブーメラン」という言葉は、その形状からのみ「識域上」に沸きあがったのではない。そこには「ブーメラン」が野山の空気を切って翔る姿も重ね合わされているのである。そのことによって「夏蝶」の自信に満ちた飛翔の姿までが表現されてくる。 (本井 英)

野遊のリード伸ばせるだけ伸ばし 井上基

 季題は「野遊」。「踏青」、「青き踏む」という季題もあるが、それらより時間的にも空間的にもやや広い感じがある。「リード」にはさまざまな意味があるが、ここでは犬を繋ぎ止める紐の謂い。近年の「ことば」である。まだ『広辞苑』には登録されていない模様だが、電気の「引き込み線」・「導線」から援用されたものであろう。さらに新聞記事などの「導入部分」の意味でも使われる。また英語でのスペリングも発音も異なるが、簧(した)の意味の「リード」も日本語の中では使われる。これはクラリネットなどの音源の振動を作るもの。「リード楽器」などともいう。

 話は変わるが、最近ある句会で「ホーム」という言葉を使った句が出て、それを筆者は鉄道の「プラットホーム」ととって選句し、解説もした。ところが仲間の一人が「老人ホーム」の意味でも解釈できるのでは、と異議を唱えられた。その句に関しては、確かにそういう解釈も成り立つ。なるほどと思うと同時に、「ことば」の面白さを思った。

 もちろん前後の言葉の関係から、ほとんどの場合正しく伝わるのであるが、中には微妙なケースもあるものである。

 俳句に使う「ことば」に関して、特別に「規則」があるわけではない。その時代、その時代に「無理なく伝わる」言葉として扱えばよいのであろう。

 さて「リード」の句。近年は愛犬家のために、短くすれば一メートルくらいでも、伸ばせば最大十メートルほどにもなるものが売られているようである。上天気の「野遊」。作者の気持ちも晴れ晴れ、そんな主人の意向を察して犬も上機嫌なのである。「伸ばせるだけ伸ばした」「リード」の先の犬の勢いまで見えてくる。(本井 英)

ふと夫のゐる気配あり初鏡   根岸美紀子

 季題は「初鏡」、元旦に見る鏡である。「夫のゐる気配」というのであるから、夫は本来は「いない」存在ということであろう。元旦になって「初鏡」に向かう作者。どこか近くに、いるはずのない「夫」の気配を感じたというのである。「初鏡」と女性心理がしっかり詠まれている。

 句評というものは、作者の実生活に立ち入ってはいけないのが原則であるが、この句の場合、筆者には、その「夫」の風貌まで目に見えてきてしまって、言葉に詰まってしまう。たとえば筆者のように大きな声を出して、家中をどしどし歩いているような「がさつな男」の場合は、「気配」などという微妙なものはなく、細君からすれば、やや鬱陶しい位であるが、一方、作者の「ご夫君」は確かに、いつの間にか、ふっと近くに佇んでいるような、静かな人物であった。あらためてご冥福を祈る次第である。作者の亡き夫君への「愛」がしみじみと伝わってくる。 (本井 英)

小父さんが去り山雀もゐなくなり  児玉和子

 季題は「山雀」。小禽類の例に漏れず秋の季題ということになっている。漂鳥の多くが夏の間山奥深く棲み、秋になると人里近く現れて、人目につきやすくなることから「小鳥来る」の季題が成立、それに伴って個別の「小鳥の名前」のほとんども秋の季題となったものであろう。そして春には「囀」という求愛行動が人々の興味を引き、個別の「鳥の名」は「百千鳥」という不思議な括られ方をする。

 さて「山雀」は人に懐くことでも小禽類中、特異な鳥かもしれない。明治神宮の内苑あたりでも、ポケットから向日葵の種だのピーナッツだのを小出しにして「山雀」の歓心を買っている「小父さん」をよく見かける。山雀たちは、小父さんが掌に置いたピーナッツを咥えては飛び去り、何処かに隠しては、また飛来して「おねだり」する。世間であまり慕われることのなくなった「小父さん」たちにとっては、自分を疑うことなく掌に止まる「山雀」は可愛くて仕方がない。さてしばらく「餌のある限り」は睦み合っていた「山雀」と「小父さん」。餌が無くなって、「小父さん」が立ち去ると、極々自然に「山雀」もあたりから見えなくなったというのである。微笑ましいような、ちょっと悲しいような、不思議な味わいのある一句である。

 虚子に〈山雀のをぢさんが読む古雑誌〉という昭和二十五年の句があるが、こちらは「山雀」がお御籤を引いてくる芸。鎌倉の八幡様の境内に毎日出ていたのを筆者も憶えている。たしかに何時も暇そうにして「古雑誌」など読んでいた。掲出句とはまるで違う世界の句ではあるが「山雀」と「小父さん」という言葉は共通していて、どこか「淋しい」感じも通じている。  (本井 英)