からまつて落ちゆく泥鰌放生会   矢沢六平

<@p> 季題は「放生会」。陰暦八月十五日、各地の八幡宮などで行われた行事で、捕らえた魚や鳥を放ち供養した。

 一句はその行事の詳細を正確に写生した佳句である。「放生会」のクライマックス、神職の手で、バケツや器に入れられていた「泥鰌」が境内の放生池に放たれたのであろう。覆された器から「泥鰌」が池の水面に向かって落ちる瞬間、黒っぽい、細長い「泥鰌」の塊は「絡み合った」状態のままで水面に向かったというのである。

 宗教行事であることを通り越して、「生きている」ということの実態が如実に表現された作品と言えよう。(本井 英)

夏蝶のごとく翔たし生きたしよ      望月公美子

 季題は「夏蝶」。ただ「蝶」とだけ言えば春の季題。それが夏に見られれば「夏の蝶」となり、秋には「秋の蝶」となり、冬には「冬蝶」あるいは「凍蝶」となる。

 夏蝶」と言えば、大型でどこか自信に充ちた飛びようが印象的で、例えば〈夏蝶翔るや杉に流れ来て翅一文字 はじめ〉などの作にその特徴がよく捉えられている。

 作者はそうした「夏の蝶」の特徴を充分に認識しながら、「夏蝶」のように振る舞いたいと思っているのである。

 やや主観的な作であるが、その土台にはじっくりとした「夏の蝶」の写生があるので上滑りにならず、心の底からの願望として読者も納得するのである。(本井 英)

井戸はまだ生かしてありぬ柿青し  児玉和子

 季題は「青柿」、もちろん全く食べられないが、盛んに茂る葉の間にあって、つぶつぶと肥えてゆく様子はなんとなく頼もしい。そんな垣内の一角に古くからの井戸があるのである。近年は水道の普及で普段は使うことはないが、それでも万が一の時のために、何年に一度かは職人を頼んで、ちゃんと「井戸替え」をして、井戸を「生かして」あるのである。井筒にはちゃんと蔽いがしてあって、かつては釣瓶であったものが、今は鉄の柄のポンプになっている。

 いかにも何世代も住まっている邸の片隅の様子が生き生きと描かれている。秋ともなればたわわに実った「柿」を採ろうと、その家の子供や友達たちが竹竿を持って集まる。この場所では、そんなことが何十年も繰り返されているのである。(本井 英)

からつぽの水鉄砲に撃たれけり  小野こゆき

 季題は「水鉄砲」。昔は竹の筒などを細工して拵えたものだが、近年ではプラスチックの、良く飛ぶ「水鉄砲」が案外廉く売られている。夏の暑い午後などは水をかけられても、却って気持ちが良く、結局はずぶ濡れになるまで水を撃ち合ったものである。さて一句の主人公は大人。子供が、もう水の切れてしまった「水鉄砲」で撃ちかけてきたのに対して、サービスで「撃たれ」たのである。その撃たれる様子を出来るだけ、リアルに、あるいは大袈裟に、つまり子供の方が喜ぶように倒れ込むところが、期待される大人の演技である。普段なかなか子供の相手をしてやれてないとの自覚のある大人ほど「名演技」を示す。軽い興味の句であるが、「大人」の一生懸命さも見えて嬉しい。(本井 英)

燕待合室を一周す   塩川孝治

 季題は「燕(つばくらめ)」で春。「待合室」は鉄道のそれであろう。クリニックなどでも「待合室」と呼ぶようだが、「燕」が自由に出入り出来るらしいという状況からは「駅の待合室」を想定するのが妥当。ようやく営巣を始めた「燕」が巣のある駅舎に飛び込んで来て、待合室をグルッと一回りするような飛翔を見せて、巣に至ったのである。真っ直ぐ「巣」に着地することももちろん出来るのであろうが、周辺の偵察も兼ねて「一周」したものであろうか。本当の目的は分からぬながら、燕の動きを注意深く見ていた作者には、「そう」見えたのである。

 「燕」には燕の事情があるであろう事を一方で想像しながら、ともかくも「燕」の動きを的確に描写し、伝えるところにこの句の興味はある。原因があって結果がある、といった理屈とは違う、「燕」そのものの行動が目に見えてくるのである。そこに一句の勁さがあった。 (本井 英)