海風はいつも冷たし花楝   藤永貴之

 季題は「楝の花」。初夏、独特の淡紫色の花を付け、遠くからでもそれと判る。さて、一句の眼目は「海風はいつも冷たし」。ここには、筆者の住む湘南の海とは明らかに異なる「海」が詠まれている。たとえば〈浪音の由比ヶ浜より初電車 虚子〉という句の場合、鎌倉で「浪音」がするということは、「海風」が吹いているということ。そのことは即ち「南風」が吹いているということで、真冬に限らず「南風」は常に温かい。即ち、「浪音」の句は、正月らしからざる「暖かさ」を背景にした句ということになるのである。つまり逗子・鎌倉といった南に開けた海を持つ地域では、およそ同じ傾向となる。一方、海が北にある場合は、これが正反対なのである。富山湾でも博多湾でも海から吹く風は必ず「北風」。そして、ほとんどの場合「冷たい風」となってくる。ことに「楝の花」の咲く初夏には、一層「冷たし」の感覚が強いのであろう。ところで、いま筆者が縷々述べたようなことを作者は考えて作句したのではなかろう。作者は「実感」を詠まれただけ。そこにこそ「花鳥諷詠・客観写生」の真髄があるのだと思う。俳句は「伝えるもの」ではないのである。(本井 英)

この雪の下の景色を忘れたり  国分今日古

 季題は「雪」。これは降っている「雪」ではなく、降り積もっている「雪」。日本列島の中でも、常にこうした景色に遭遇する地方と、なかなか経験しない地方に大きく分かれる。さらにこの句は、しばらく、何日も同じような「雪景色」を見慣れてしまっているので、まったく「雪」の無かった頃の景色を「忘れてしまった」と嘆いている。

 こうなると、やや特殊な、いわゆる「雪国」独特の風土を詠んだ句であることもはっきりしてくる。実際「雪国」に住んだことの無い者にはちょっと想像しにくい感想であるが、よく読んでみると、そんな感覚もあろうかと納得がいった。

 この句の魅力はリズム。十二音と五音の語群に分かれていながら、五音(下五)のきっぱりした語調で、全体が引きしまって聞こえる。ふっと口を衝いて出て来た言葉でありながら、「たり」の助動詞が潔い。説明しよう、伝えようという意識より、作者の心の呟きが優先しているためだ。(本井 英)

流線の左旋右転ぞ吹雪なる  稲垣秀俊

 季題は「吹雪」、吹き降りの雪である。「流線」は正確には物理用語でなかなか難しいが、つまりは、時間軸に沿った、物の流れの軌跡を辿った線で、原則交わらないものという。その「吹雪」の一粒一粒の雪片の流れの線が、左に旋回し、次いで、右に転回するというのである。さらに「左旋右転」は剣法の世界でも使う熟語で、刀を左の振り抜き、次いで右へと転ずる、刀捌きをもいうらしい。

 用語的には、耳慣れないものが多く、いまひとつ理解が十分でないながら、広々とした曠野を吹きまくる「吹雪」の雪片が右に左にと、予想を覆しながら渦を巻いているようすが見えてくる。

 その理由は、どこまでも一句の調子に差し迫ったものがあるためで、「ぞ」の係結びもすこぶる効果をあげていると言えよう。(本井 英)

蓮刈られ鉢に短かき茎の数  山内裕子

 「蓮刈る」といった季題が特にあるわけではないので、季題は「枯蓮」ということになろう。蓮は酸素を必要とすることが少ないので、ある程度の大きさがあれば、鉢でも育てられ、実際、町中の寺院の境内で「蓮の鉢」の並べられている景色をよく見る。

 蓮を刈った坊さんはおそらく几帳面な人物だったのであろう。水面からきちっと十センチくらいに刈り揃えられており、「茎の数」が一目で判るというのである。不忍池などの枯蓮の景が、無残に乱れているのに比べて、枯れても端正さを失わないところに、仏法の有り難さを感ずる向きもあろう。「鉢に短かき茎の数」というきっぱりしたリズムが一句の生命である。(本井 英)

滝水のぐうんと伸びて落ちにけり 山本道子

 季題は「滝」。古くは「滝見」といった人事季題として「夏」であったものが、近代になって「滝」だけ独立して季題になったという。「滝」と「水」の関係を無機質的に表現した句としては〈滝の上に水現れて落ちにけり 夜半〉があまりにも有名だが、掲出句も負けず劣らず、「滝」そのものを執拗に写生した賜の句と言える。

 下から滝を仰いでいると、滝口に現れた「水」が、垂れ下がった途端に「ぐうん」と「伸びて」、それまでの「水」の密度とは異なる希薄さを呈しながら下降し、滝の中ほどからは、それが千切れて、さらに細かく破砕されながら滝壺に躍り込む。こうしたプロセスを読者にきちっと提示してくれた一句である。

 写生ということは、我々花鳥諷詠の徒の基本的な態度であるべきで、こうした地道な句作りを忘れてはならないと思う。(本井 英)