井戸はまだ生かしてありぬ柿青し  児玉和子

 季題は「青柿」、もちろん全く食べられないが、盛んに茂る葉の間にあって、つぶつぶと肥えてゆく様子はなんとなく頼もしい。そんな垣内の一角に古くからの井戸があるのである。近年は水道の普及で普段は使うことはないが、それでも万が一の時のために、何年に一度かは職人を頼んで、ちゃんと「井戸替え」をして、井戸を「生かして」あるのである。井筒にはちゃんと蔽いがしてあって、かつては釣瓶であったものが、今は鉄の柄のポンプになっている。

 いかにも何世代も住まっている邸の片隅の様子が生き生きと描かれている。秋ともなればたわわに実った「柿」を採ろうと、その家の子供や友達たちが竹竿を持って集まる。この場所では、そんなことが何十年も繰り返されているのである。(本井 英)

からつぽの水鉄砲に撃たれけり  小野こゆき

 季題は「水鉄砲」。昔は竹の筒などを細工して拵えたものだが、近年ではプラスチックの、良く飛ぶ「水鉄砲」が案外廉く売られている。夏の暑い午後などは水をかけられても、却って気持ちが良く、結局はずぶ濡れになるまで水を撃ち合ったものである。さて一句の主人公は大人。子供が、もう水の切れてしまった「水鉄砲」で撃ちかけてきたのに対して、サービスで「撃たれ」たのである。その撃たれる様子を出来るだけ、リアルに、あるいは大袈裟に、つまり子供の方が喜ぶように倒れ込むところが、期待される大人の演技である。普段なかなか子供の相手をしてやれてないとの自覚のある大人ほど「名演技」を示す。軽い興味の句であるが、「大人」の一生懸命さも見えて嬉しい。(本井 英)

燕待合室を一周す   塩川孝治

 季題は「燕(つばくらめ)」で春。「待合室」は鉄道のそれであろう。クリニックなどでも「待合室」と呼ぶようだが、「燕」が自由に出入り出来るらしいという状況からは「駅の待合室」を想定するのが妥当。ようやく営巣を始めた「燕」が巣のある駅舎に飛び込んで来て、待合室をグルッと一回りするような飛翔を見せて、巣に至ったのである。真っ直ぐ「巣」に着地することももちろん出来るのであろうが、周辺の偵察も兼ねて「一周」したものであろうか。本当の目的は分からぬながら、燕の動きを注意深く見ていた作者には、「そう」見えたのである。

 「燕」には燕の事情があるであろう事を一方で想像しながら、ともかくも「燕」の動きを的確に描写し、伝えるところにこの句の興味はある。原因があって結果がある、といった理屈とは違う、「燕」そのものの行動が目に見えてくるのである。そこに一句の勁さがあった。 (本井 英)

難持坂をのぼれば花の雲のうへ    冨田いづみ

 「難持坂」は大田区池上本門寺の参道「此経難持坂」、九十六段の階段。法華経宝塔品九十六文字に因んで作られたという。季題は「花の雲」。桜の花が咲き満ちて、あたかも「雲」のように犇めいている様子である。  池上本門寺に詣でた作者は池上線の駅から歩いて、呑川に架かる橋を渡り、満開の桜の道を進み、「難持坂」の急階段を登って仁王門に達したのであろう。そして振り返った時に、作者の目に飛び込んで来たのは眼下に蟠る「花の雲」。「難持坂」を登っている最中は脇目も振らずに、ひたすら歩いた。そのご褒美のような絶景に心奪われている作者の、満足した姿が見える。体験をそのまま句にしたものだが、真っ直ぐな表現の中に、俳句の至福のようなものが詰まっている。(本井 英)

水に散る一人の影や蜆舟   辻梓渕

 季題は「蜆舟」、「蜆」の傍題である。蜆は極々浅い内海、河川、湖沼などで採る。多くの場合「鋤簾」と呼ばれる道具で、舟の上から海底を探ったり、ときには舟を降りて水中に立ち込んで探ったりする。

 この句の場合は、舟を降りて「鋤簾」を揮っているようである。表現上の一句の眼目は「水に散る」「影」。もちろん「影」の主は「漁師」である。腰ぐらいまで、水に立ち込んだ漁師の姿が「ちりぢり」になって水面に映っている様子を詠んでいるのである。「映る」としないで「散る」とした処に作者の工夫があるのは言うまでもない。

 まるでフランス印象派の絵画のように、水面に散らばった「色の断片」を見るような表現だが、いかにも「一人」の、しかも殆ど音を立てない「漁師」の仕事のあらましが見えてきて、「絵」として好もしい。

 我々の俳句は、なるべくなら地味で落ち着いた表現の奥に、佳き読者のみが洞察できる、ヴィヴィッドな世界が展開しているのが理想だが、たまにはこの句のように、やや派手で、人目を惹く表現も悪くはない。作者の顔が見えるような「自慢げ」な表現ではないからである。(本井 英)