潮騒を聴きながら(雑詠句評) « 夏 潮

難持坂をのぼれば花の雲のうへ    冨田いづみ

 「難持坂」は大田区池上本門寺の参道「此経難持坂」、九十六段の階段。法華経宝塔品九十六文字に因んで作られたという。季題は「花の雲」。桜の花が咲き満ちて、あたかも「雲」のように犇めいている様子である。  池上本門寺に詣でた作者は池上線の駅から歩いて、呑川に架かる橋を渡り、満開の桜の道を進み、「難持坂」の急階段を登って仁王門に達したのであろう。そして振り返った時に、作者の目に飛び込んで来たのは眼下に蟠る「花の雲」。「難持坂」を登っている最中は脇目も振らずに、ひたすら歩いた。そのご褒美のような絶景に心奪われている作者の、満足した姿が見える。体験をそのまま句にしたものだが、真っ直ぐな表現の中に、俳句の至福のようなものが詰まっている。(本井 英)

水に散る一人の影や蜆舟   辻梓渕

 季題は「蜆舟」、「蜆」の傍題である。蜆は極々浅い内海、河川、湖沼などで採る。多くの場合「鋤簾」と呼ばれる道具で、舟の上から海底を探ったり、ときには舟を降りて水中に立ち込んで探ったりする。

 この句の場合は、舟を降りて「鋤簾」を揮っているようである。表現上の一句の眼目は「水に散る」「影」。もちろん「影」の主は「漁師」である。腰ぐらいまで、水に立ち込んだ漁師の姿が「ちりぢり」になって水面に映っている様子を詠んでいるのである。「映る」としないで「散る」とした処に作者の工夫があるのは言うまでもない。

 まるでフランス印象派の絵画のように、水面に散らばった「色の断片」を見るような表現だが、いかにも「一人」の、しかも殆ど音を立てない「漁師」の仕事のあらましが見えてきて、「絵」として好もしい。

 我々の俳句は、なるべくなら地味で落ち着いた表現の奥に、佳き読者のみが洞察できる、ヴィヴィッドな世界が展開しているのが理想だが、たまにはこの句のように、やや派手で、人目を惹く表現も悪くはない。作者の顔が見えるような「自慢げ」な表現ではないからである。(本井 英)

海風はいつも冷たし花楝   藤永貴之

 季題は「楝の花」。初夏、独特の淡紫色の花を付け、遠くからでもそれと判る。さて、一句の眼目は「海風はいつも冷たし」。ここには、筆者の住む湘南の海とは明らかに異なる「海」が詠まれている。たとえば〈浪音の由比ヶ浜より初電車 虚子〉という句の場合、鎌倉で「浪音」がするということは、「海風」が吹いているということ。そのことは即ち「南風」が吹いているということで、真冬に限らず「南風」は常に温かい。即ち、「浪音」の句は、正月らしからざる「暖かさ」を背景にした句ということになるのである。つまり逗子・鎌倉といった南に開けた海を持つ地域では、およそ同じ傾向となる。一方、海が北にある場合は、これが正反対なのである。富山湾でも博多湾でも海から吹く風は必ず「北風」。そして、ほとんどの場合「冷たい風」となってくる。ことに「楝の花」の咲く初夏には、一層「冷たし」の感覚が強いのであろう。ところで、いま筆者が縷々述べたようなことを作者は考えて作句したのではなかろう。作者は「実感」を詠まれただけ。そこにこそ「花鳥諷詠・客観写生」の真髄があるのだと思う。俳句は「伝えるもの」ではないのである。(本井 英)

この雪の下の景色を忘れたり  国分今日古

 季題は「雪」。これは降っている「雪」ではなく、降り積もっている「雪」。日本列島の中でも、常にこうした景色に遭遇する地方と、なかなか経験しない地方に大きく分かれる。さらにこの句は、しばらく、何日も同じような「雪景色」を見慣れてしまっているので、まったく「雪」の無かった頃の景色を「忘れてしまった」と嘆いている。

 こうなると、やや特殊な、いわゆる「雪国」独特の風土を詠んだ句であることもはっきりしてくる。実際「雪国」に住んだことの無い者にはちょっと想像しにくい感想であるが、よく読んでみると、そんな感覚もあろうかと納得がいった。

 この句の魅力はリズム。十二音と五音の語群に分かれていながら、五音(下五)のきっぱりした語調で、全体が引きしまって聞こえる。ふっと口を衝いて出て来た言葉でありながら、「たり」の助動詞が潔い。説明しよう、伝えようという意識より、作者の心の呟きが優先しているためだ。(本井 英)

流線の左旋右転ぞ吹雪なる  稲垣秀俊

 季題は「吹雪」、吹き降りの雪である。「流線」は正確には物理用語でなかなか難しいが、つまりは、時間軸に沿った、物の流れの軌跡を辿った線で、原則交わらないものという。その「吹雪」の一粒一粒の雪片の流れの線が、左に旋回し、次いで、右に転回するというのである。さらに「左旋右転」は剣法の世界でも使う熟語で、刀を左の振り抜き、次いで右へと転ずる、刀捌きをもいうらしい。

 用語的には、耳慣れないものが多く、いまひとつ理解が十分でないながら、広々とした曠野を吹きまくる「吹雪」の雪片が右に左にと、予想を覆しながら渦を巻いているようすが見えてくる。

 その理由は、どこまでも一句の調子に差し迫ったものがあるためで、「ぞ」の係結びもすこぶる効果をあげていると言えよう。(本井 英)