第零句集(第一集)」カテゴリーアーカイブ

夏潮『第零句集』(第一集)の紹介です。

『鯛の鯛』を読んで_(矢沢六平)

『鯛の鯛』を読んで
・                 矢沢六平
 モズ君は、飲み食いすることや生き物が、とても好きなんだと思う。突然わけのわからない茸を持参して泊まっていったりして、まったくもって憎めないやつである。今回、句集を読んで、あらためてそのことを思った。
 さておき、さっそく俳句を…。
卒業をして二日経し三日経し
 虚脱感というか、喪失感というか。二三日目くらいが一番そういう感じが強いですね。卒業子を詠むのではなく、本人が卒業子である卒業の句は、もしかすると初めて見たかもしれない。
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ひらひらと踊の輪より抜け来たる
 ひらひらとした様子で、ではなく、本当に手をひらひらと動かしていたのだと思いました。踊りの所作をしながら、目立たぬように、そっと踊りの輪からフェードアウトしてこちらへやって来た…。
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大綿の添ふと見えしが躱しけり
 下五を「躱しけり」としたので、主語が私から大綿に転換した。そこがよかった。
曳波を花の堤にぶつけ行く
 「ぶつけ」るで、曳波を作っている舟の姿が見えてくる。曳波はけっこう強そうだ。だから舟は速いのではないか。堤に、桜と人々。川面に、幾艘もの屋形舟。ただ一艘、河口から艀が来て、周囲の観桜の様子にはまるで無頓着に、川をグングン遡って行く…。
操舵の手残して西瓜啜りをり
 片手運転をしているんですね。自動車だと、シートが汚れて困るけど、船だから立って操縦しているわけで、多少床が汚れても、「ま、いいか」。
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死蝉(※)の命戻りて壁を打つ
 死んでいると思った仰向けの蝉。突然、ジジッと鳴いて飛び立ちました。子供の頃よく見ました。…でも、壁にぶち当たってしまいました。生き物の、こういうまぬけさって、何かこう、あはれがありますネ。(※:「蝉」は旧字)
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籾殼の灰に籾殼盛られけり
 灰色のさらさらの灰の上に黄土色の籾殻の山。灰をもっと作りたいのか、籾殼を全部処理してしまいたいのか。いずれにしろ、何か農作業の一環なんだろう。
 色のコントラストに感じのある句だ。もっと言えば、生と死のコントラストかもしれない。「けり」だと、籾殻を盛ったという行為に読み手の注意が向き、「をり」だと、盛られた様子に注意が向く。だから「をり」の方がよいのではないか…、というのが僕の意見です。違ってたらゴメン。
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伐られたる株の平らや落葉中
 何の株だか考え、結局、木の切株に着地しました。切り口が平らなのだから、太い木ではないのでしょう(大木なら、切り口が段差になっているはず)。スパンと伐られた切り口に、ある種の詩的感興があった、という感じは、私には分かる気がいたします。落葉はまだ、さほど深くはないかもしれません…。
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赤貝の血に透明な水流す
 仕込みの俎板ですね。手前から流れてきた透明な水に押されて、赤貝の血が向こう側へ移動してゆく。血と水はまだ交じり合っていません。
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素魚のゐなくなりたる鉢の水
 冷麦だって、食い終わったら鉢に水が残る。でも、「ああおいしかった」に続く言葉は、特に出てはこないだろう。
 しかし、素魚、である。だから「なくなりたる」ではなく「ゐなくなりたる」。作者は鉢の水を見ながら、「喰っちゃったんだなあ…」と心の中で呟いている。
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別れたる子猫ふり返りもせぬよ
 こちらの気持ちに頓着なくあっけらかんと貰われていった子猫を詠んだのだろう。しかし、ふと、「子猫」と「ふり返り」の間で切れるのではないかと思った。子猫を貰ったことで一生懸命になってしまい、こちらをふり返ってお辞儀することも忘れて帰って行った人よ…。
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祭着の子や祭着の父追ひて
 まだ「かあちゃんがすべて」の年齢の子供なんだろうと思う。でも今日は、とうちゃんの後を追う。二人共、祭衣装だからだ。
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辣韮掘る端から元の砂原に
 さらさらと砂が流れて、あっというまにその凹みは埋まってしまった…。
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岩魚沢下りれば日ある沢の口
 岩魚沢「に」なのか、岩魚沢「を」なのか、とても迷った。
 「に」の場合の解釈。山中を歩いてきて沢の入り口まで来た。沢に下りたら、そこは多少空がひらけているので、さっきまで感じられなかった日差しが差してきた。さ、釣行のはじまりハジマリ…。
 「を」の場合の解釈。岩魚沢を下って、その入り口の場所まで戻ってきました。日はまだ暮れきってはいません。釣果はともあれ、どうやら無事に生還できました(岩魚釣りはホントに山奥まで入り込むようです)。めでたしメデタシ…。
 どちらの解釈も好きです。
日の蔭のバケツにべらを投げ込みぬ
 なぜ、べらなのか。沖縄はともかく、本州ではべらが、最も色彩豊かな魚のひとつだからだろう。
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水底に鯊の叩きし煙二度
 さすが釣りキチ、よく見ています。鯊が水底を叩いて逃げる時、尾の動作は、「パン」ではなくて、「パパン」ですよね。
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踏跡の尽きて枯野のあるばかり
 作者も前に来た人達と同じように、ここで引き返すのでしょう。
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漉き上げし如く田毎に残る雪
 四角い田圃の四辺に添った部分の雪が融けて土が見えている、という状況でしょうか。つまり解け残った雪も四角い。
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蛤の開けば湯気吐く網の上
 「湯気立つ」ではなく、「湯気吐く」としたところが好い。うまそうだなあ。
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防風を摘みし袋のもう蒸るる
 コンビニのレジ袋にでも入れているのでしょうか。摘まれてもまだ、息をしているんですね。
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お握りを積みてさなぶり支度出来
 改めてお礼の接待としてのさなぶりと、「お疲れさん、さあ食べて食べて」のさなぶり。もちろん後者です。若い人が大勢お手伝いに参上していたのしょうネ。
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ちぬ釣って而して椀の鯛の鯛
 「而して」で、「料理して(あるいはしてもらって)食べた」という一連の時間の流れを言い表した。そこがよかった。鯛の鯛が上手に残せた時は嬉しいものだが、自分が釣った魚であれば、いつもとは少し違う感じもあるだろう。
前景に稲の掛かりし浅間かな
 穂高や乗鞍では、山が「遠景」になってしまう。富士に稲は似合わない。稲架が前景となる「近さ」が浅間山の持ち味の一つなんだと思う。
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登り来て神か狢か棲む祠
 崩れて苔むして、もう祠かどうか判らなくなっているんですね。
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箒目に早や山茶花の五六片
 まだ新しいくっきりとした箒目が見えます。
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 零句集、たいへん美味しうございました。俳句を堪能いたしました。
 またいつでもおこしください。ただし、日曜日以外に。なぜなら日曜日は肉屋が休みで、馬刺しが買えないから(スーパーでも売ってるけど、やっぱ肉屋で切ってもらったやつは全然違う!)。
 共に食い、共に飲み、ともにさすらい、そしておおいに俳句をつくりませう。謝々。

「夏潮 第零句集シリーズ Vol.8」 川瀬しはす『TKS』

「夏潮 第零句集シリーズ Vol.8」 川瀬しはす『TKS』~Tanoshiku Kyo-mo Susumoo~

 

 「夏潮第零句集シリーズ」。第8号は川瀬しはすさん。

しはすさんは、昭和四十三年生れ。慶應義塾大学在学中に教養課程の「日本語表現論」で本井英主宰に巻き込まれて俳句と出会い、「惜春」を経て「夏潮」に参加。お仕事などでお忙しく、一時俳句を中断されていたようだが、現在では「夏潮」に投句して頂いている。

 主宰の前書きにもあるとおりとにかく明るい方で、俳句もそのような前向きなエネルギーにあふれている。季題に対して前向きに、ご自分の主観をぶつけていられる俳句が目立つ。その一方表現としては言葉に無理をさせないよう、抑制されている。一部取り合わせが平凡と思う句も散見されたが、それはこれから沢山の俳句を残されていくに連れ洗練されていくことと思う。

 

マフラーのたてがみのごとバイク乗り しはす

 

 季題は「マフラー」。下五が「乗り」と動詞で扱われているので「自」の句として鑑賞した。

 バイクに乗ってかっ飛ばしている際に、自分のマフラーが棚引いている。それを馬の「たてがみ」のようだと表現された。冬の季節のバイクというのは風が冷たいものだが、この句の場合はそういうネガティブな部分は見当たらず、前向きに実に楽しそうな様子が浮かんでくる。空も素晴しい天気であったのだろう。

 

トラックに塩振るごとく霰振る しはす

 

 季題は「霰」。この句も楽しい比喩を用いている。霰が降るような時は、大概くらい雰囲気であると思うが、トラックの荷台にぱらぱらと降る霰を塩と見た。「塩を振る」と言われて見ると一気に光景が軽妙な感じられる。お仕事柄、納入に来た業者と搬入口で軽口を叩き合っているような景が勝手に浮かんだ。

 

『TKS』抄 (杉原祐之選)

風光る水銀柱は十八度

左義長の破魔矢の鈴焼け残る

マフラーを著しケロヨンの置かれあり

いやいやとそうそうと揺れ玉椿

蜻蛉生る峠の道は工事中

灯台の町は恋猫多き町

あたたかや下の歯生えて笑ひたる

マンションに囲まれてゐる盆踊

手術着の汗の行き場のたよりなき

建ち並ぶハイツにコーポ芝櫻

 

以下、川瀬しはすさんにインタビューを行いました。

Q: 100句の内、ご自分にとって渾身の一句

>A: 風光る水銀柱は十八度

渾身、というよりも捨身の一句。まだ俳句を始めて間もない頃の慶大俳句の富山合宿の帰りのこと。大先輩の故大島民郎さんと大阪に向かう列車の中で二人句会をするハメになり(失礼な話だが、その時初心者のワタシはホントにそう思った)、その場でとっさに作った句。しかしながら民郎さんはとても褒めてくださり、おかげで俳句を続けることができたと言っても言い過ぎではありません。もしかしたら俳句がイヤにならないように褒めてくれたのかな?ありがとうございました。合掌。

Q:100句まとめた後、次のステージへ向けての意気込み。

A:なるときはなるがよし。俳句を作り続けること。おいしいものを食べること。旅にも出ること。そうすれば人生の中で新たなステージがやってくるでしょう。でも来たチャンスは逃さないこと。

 

Q:100句まとめた感想を一句で。

A:四月馬鹿云ふも縁のなれとせん

Q:句集のタイトルの『TKS』について

A:検索サイトでTKSと入力すると何が出てくると思いますか?

1.AKB48の妹ユニット(地名は群馬県高崎市と思われる)

2.ソ連の宇宙運搬船

3.ありがとうのスラング、Thanksの略

4.TaKarazuka-Shi

5.Takahama-KyoShi

本当に検索して出てくるのは2です。地味に活動していた縁の下の力持ち的な宇宙運搬船だったそうです。あとがきにも書きましたが、俳句のどこかを担っていきたいという思いとシンクロして、いいタイトルになったなー、と考えています。

相模原市在住のモモエさんからは、何故TKSというタイトルだったの?との質問がありました。私の正解は、3の気持ちに、1の時代性をかけた、です。

誰も正解はなかったと思います。3も本当にそう言うのか?というと間違いかもしれず、自信はありません。

早速使おうと思ったアナタ、恥をかいても私のせいにしないでください。ただ、ロンドン在住が長かった方のメモにTKS!と書いてあったのは事実です。

後付けで4(住んでいる)5(夏潮といえば!)も考えてみましたが、5あたりは本井先生にシバかれそうですね。

あとイロイロ考えてみました。「タカシ」(誰やねん)「タケシ」(前のとかぶってるでー)「高島屋」(勤めてる会社違うし←石川陽一郎先輩ゴメンナサイ)「T食べるK食うS寿司」(富山に行くとまさにこんな感じ)「T止まらずK転ぶSスキー」(富山に行くとまさにこんな感じ)「TタカハシKかっ飛ばSせー」(ちょっと苦しい。高橋由伸今シーズン大丈夫か)「TタイガースK勝ってS三位」(また野球でかぶった。クライマックスシリーズには出れます)。

オチはこのあたりでいかがでしょうか。「T足りないK川瀬Sしはす」これにて失礼いたします。

句集『TKS』を読んで~稲垣秀俊

 句集『TKS』を読んで~稲垣秀俊

川瀬しはすさんは昭和43年生まれ、俳句を始められたのが昭和63年で、以後本井主催に師事されている。

川瀬さんの句は、下に挙げるように平明かつ明朗で、写生句の王道といった感じがある。先に評を書かれた本井主宰も矢沢六平さんもその点を指摘されている。句の明るさは、川瀬さんのお人柄はもとより、テーマの選び方と観察の正確さに因るものであろう。

         成り揃ふ小茄子中茄子砂地畑

      左義長の破魔矢の鈴が焼け残る

              蜻蛉生る峠の道は工事中

 

以下はまだ他の方が評されていない句に触れていく。

 

              造園夫五六人ゐて春めける

 植え替えシーズンを迎えて活気が出てきた造園屋の風景であろうか。造園夫にしか触れられていないが、春めくという季題によって、周囲に植えられている木々の活力溢れる様子まで想像できる。

 

              汗したヽる顎頬骨と団子鼻

 顔のパーツを下から並べていくことで、仰角のある顔面が迫ってくるような効果が出ており、汗のしたたる暑苦しさを表現している。その雰囲気はまるでKING CRIMSONのジャケット画のようであり、顔というよりは肉塊に近い油っぽさを感じる。

 

              建ち並ぶハイツにコーポ芝櫻

 新興住宅地の植え込み、あるいはちょっとした公園に芝桜が咲いている様を写生した句である。味気ない住宅と、管理の行き届いた植え込みと、植栽された芝桜。どこをとっても人の手が入っていて小奇麗であり、一見俳句にし難いようにも感じるが、こうした人工的な景にこそ芝桜の本情があるように思う。

 

              うねるやうな宿の畳や菜種梅雨

 菜種梅雨は3月下旬から4月にかけて降り続く雨のことである。私にはまだ使いこなせない季題であったので、この句は大変勉強になった。

畳がうねっているくらいであるから、それなりに古い宿である。またそのうねりに気がつかれた川瀬さんは少し寛いでいらしたのであろう。古宿に何をするでもなく休んでいるという景と、梅雨や秋黴雨とは異なる菜種梅雨のデカダンな感じが相俟って独特の空気が醸成されている。

 

稲垣秀俊

句集『TKS』を読んで_矢沢六平

句集『TKS』を読んで  矢沢六平
 気が付いたら誌面でしかお目にかからないまま、ずいぶんと長い時間が経ってしまいましたね。届いた句集の著者近影に会社のブチョーさんが写っているので驚きましたが、よく見ればそのポーズの取り方や笑顔は、まさしく川瀬さんそのもの!でありました。
 色々と懐かしい話をしたいところですが、ここは夏潮の公式HP。さっそく本題の俳句鑑賞に入りたいと存じます。
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マフラーを著しケロヨンの置かれあり
 句集を一読したところ、今回もありました、「秒殺句」が!(意味は麻里子さんの句集の感想文をご覧ください)
 ここは、サトちゃんでもペコちゃんでもなく、ケロヨンでなくてはなりません。なぜならケロヨンは、緑一色に塗られているからです。全身が同じ色だから、そこに巻かれたマフラーが際立ちます。マフラーの色は詠まれていませんが、赤かピンクだったら最高ですね。きっとそうだったろうと思われます。
 では、二読目に入ります。素敵に思えた句を掲載順に…。
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門松を残しシャッター降ろしたる
 商店主はシャッターを降ろして店の中に消えたのでしょう。作者はそこに居合わせた。さほど大きくはない商店街の閉店後の店店の店頭に出してある門松。そこに漂うかすかな淑気…。
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左義長の破魔矢の鈴が焼け残る
 どんど焼きの「跡」に興味があって、過去に何度か句に詠んだことがあるのですが、うまくいきませんでした。そうですね、たしかに、鈴が焼け残っていますね。僕は観察が足りませんでした。
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古宿や音の微かに扇風機
古宿の土間暗きこと涼しきこと
 古宿は、どこまでも寥かです…。今そこには作者一人しか居ません。
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春近し木槌で立ててゐる標
 木槌で打てるのだから、小さい標なんですね。花の名前でも書いてあるのでしょうか。間もなく、人や自然が活発に動き始める「予感」がよくあらわされています。まさに、春近し、であります。
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お彼岸の晴や少々風きつく
 彼岸の感懐は、「あたたかくなってきたなあ」なんだけど、「まだまだ寒いなあ」でもあると思います。「晴」としたところが手柄で、彼岸を迎えた歓びが出ていると思いました。
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螢火の手から手へまた手から手へ
 二三人ではなく、十人前後の小グループが目に浮かびます。だから、「また手から手へ」とあいなる。野郎どもだけではそんなことをするわけありません。きっと男女混合のグループ旅行なんでしょう。青春、ですなあ…。
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懐手して盧遮那仏見上げたる
 「腕組んで」でも「腰に手を当て」でもなく、「懐手」である。冬に見上げる盧遮那仏。説明できないが、よい句であると思う。写生句には、しばしばそういう句がある。
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露天風呂汗して尻に石の跡
 長湯して(それでもまだ去り難いので)、腰掛けて足湯みたいにして露天風呂に浸かっていました。そりゃ、尻に跡もつくはなあ。傑作!でございます。
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蜻蛉生る峠の道は工事中
 工事とは関係なく、自然の営みは着々、淡々と…。作者はきっと、この後視線を眼下の景色に転じたような気がします。
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湯面にはこちら向きたる柚子の尻
 柚子は傾いで湯に浮いているのですね。感じのある句です。
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早速の予定いくつか初暦
 お忙しいのですね。ご愁傷様。初暦である、と気付いたところに大袈裟ではない、ある種の軽い感懐が感じられる。そこがなんとも好もしい。
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あたたかや下の歯生えて笑ひたる
 「笑ひたる」だから、万緑ではなく、「あたたか」がふさわしい季題なのだと思う。
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肌赤き父の運動会帰り
 今日一日、お父さんは頑張りました。
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錦繍の山の傷なるゴルフ場
 ゴルフやスキーは、それ自体は大変面白いスポーツだが、そこに集い来る人々に不愉快な輩が多いので、三十五歳くらいを境にすっかりやらなくなってっしまった。そうなると、山肌に刻まれた傷が何とも痛々しい。今やゴルフ場やスキー場は供給過多だから、どんどん潰して、木を植えなおしていくべきである。
 きちんとした写生句であるのに、私の意見広告に使ってしまい、申し訳ありませんでした。しかし作者も、「傷」という強い言葉を使っています。
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春の灯やアロエ療法研究所
 アロエ療法研究所、がすべて。なんとなくインチキ臭い感じが「春灯」のぼんやりした様子をよく描き出しています。
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マンションの中庭に風夜の秋
 吹き抜けなんだろうけれど、建物に囲われた、四角い小さな中庭を思い浮かべました。「秋の夜」ではなく「夜の秋」としたので、「風」の語が生きた思います。
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 読み了えました。
 句はすべて私の心にスッと入り込んでくるものばかりでした。世には句意を読み解くうちにジワジワと感動が得られる句も存在しますが、スッと来る句が沢山並んでいるのは、読んでいて心から楽しい。
 句集名『TKS』は、あとがきから類推するに、作者としては「感謝(サンクス)」の意なのかもしれませんが、旧知の一読者としては、「たまらんぜ・かわせ・しわす」でありました。
 明るく楽しい句集を堪能いたしました。ありがとう。

前北麻里子第零句集『誕生日』鑑賞_渡辺深雪

前北麻里子『誕生日』鑑賞 渡辺深雪

 

 夫かおる氏の浜松赴任以来、前北麻里子さんとは家族ぐるみでお付き合いさせていただいている。八千代句会でも公私共にお世話になっているが、麻里子さんの作る句には常に女性らしい細やかな感性と、気取りのないのびやかさが見られ、筆者にとっても勉強になる所が多い。

 

 麻里子さんの句に一貫して見られるのは、季題の持つ気分のようなものを素直に伝えていることである。

 

 夏服に名前を白く刺繍して 麻里子

 冬の雨三百世帯静まりぬ

 

 夏服の白い刺繍からは夏の明るさと清涼感が伝わって来るし、町中がしんと静まる情景からは冬の雨の持つもの淋しさをそのまま感じることができる。

 が、素直でありながら、「刺繍」という視点や「三百世帯」という表現には他の俳人とは異なる独自の感覚が見られる。その感覚は、対象となるものの特性を眼前にはっきりと表す、巧みな描写の形を取って表れる。

 

 飛び魚や海に光の糸引いて      麻里子

 向日葵のシャワーヘッドのごとく垂る

 

 「光の糸」という言葉からは、単に飛び魚が元気よく跳躍する様だけでなく、光り輝く夏の海の情景が見事に伝わって来る。「シャワーヘッド」という描写を見ても、確かにひまわりの花はそのような形をしているし、実のいっぱい詰まった重量感のようなものが見てとれる。

 それにしても、どうしてこのように言葉を巧みに用いて対象を描写することができるのか。基になっているのは、以下の句に見られる発想の豊かさではないだろうか。

 

 白薔薇を絵の具で赤く塗る話 麻里子

 入道雲蛸のお話作りけり

 

 前者は有名な『不思議の国のアリス』に出て来る場面である。小さなお子さんと一緒に白いバラを見て、作者はふとこれを思い出したのだろう。雲を蛸の形にたとえる後者の句と言い、季題をただ写生の材料に用いるだけでなく、そこから寓話の世界へ読者をいざなう所に面白味がある。

 しかし、ただ発想が豊かであるだけでは優れた句は作れない。あるがままにものを見、生活者の視点に立って句を作る誠実さが必要になるのだ。その誠実さは、一児の母親の立場から作った以下の句に十分見ることができる。

 

 らふそくも苺も一つ誕生日     麻里子

 母が読みひとり子の取る歌留多かな

 

 お子さんの成長と共に麻里子さんの句もどのように進化して行くのか、これからも八千代の句友の一人として暖かく見守って行きたい。

 

色の名を教へ巡るや薔薇の園 麻里子

 小さな子供を連れて、近所のバラ園へピクニックに出かけた。そこには赤、白、黄色と色とりどりのバラが咲きほこっている。が、幼い子供は何も判らず、ただぼんやりと目の前の花を見ている。作者は花を指さして、夫と一緒に「これは赤だよ」、「これは白だよ」と、一つ一つ色の名前を教えてあげた。きれいなバラの花を眺めながら、子供にものを教えていることを楽しんでいるようだ。そう考えると何気なく咲いているバラも、我が子の成長を見守っているように思われて来る。

 

仕舞ひには団扇で冷ます夜泣きの子 麻里子

 季題は『団扇』。赤ちゃんに夜泣きはつきもの。ことに熱帯夜となれば、これが一段とはなはだしくなろう。夜中に目を覚まし、激しく泣きわめく赤ちゃんの顔は、暑さのせいもあって真っ赤に紅潮している。どれだけあやしても泣きやまず、仕方なくその顔を団扇で仰いで冷ましてやることにした。「仕舞ひ」というなげやりな言葉から、暑さと夜泣きに翻弄される親の苦労が見てとれる。

 

蟬死せりからりと腹を上にして 麻里子

 「からりと」という秀逸な表現が、この句の中で大きなウェイトを占める。夏も終わりになると、それまで元気よく鳴いていた蟬の死骸があちこちに転がっているのを見かけるようになる。仰向けになって息絶えたこの蟬もその一つだ。それにしても、「からり」という表現は、何とも間が抜けて冷たく突き放したものの言い方ではないか。だが、この広い世界にあっては、ひとつの存在が消えるとはその程度のものかも知れない。死を前にして感傷的になるのは、唯一人間だけだろう。

 

爽やかにラクロス刈りたての芝生 麻里子

 きれいに晴れ渡った、秋の日の情景。近所の運動公園であろうか、夏の間に伸びきった芝生も短く刈り取られ、その上で少女たちがラクロスをしている。芝生のすっきりした感じと、白いユニフォームの少女たちが躍動する様を見ると、何とも明るく若々しい印象を受ける。この印象を、作者は「爽やか」という季語で表した。刈りたての芝生の上でスポーツに興じる少女たちとこれを見る作者、双方の心躍る様を感じることができる。

 

青空に向かふ坂道蜜柑畠 麻里子

 昨年の秋、筆者は地元浜松に作者とそのご家族をお招きする機会に恵まれた。上の句は、この時に作られたものである。蜜柑は傾斜の急な所で栽培することが多く、これを上ろうとするとちょうど空を見上げる格好になる。この日は、蜜柑畠を上っていった先に、よく晴れ渡った青い空が広がっていた。みんなで上った坂道が、作者の眼にはこの青い空へ続いているように見えたはずだ。どこまでも明るく澄み切った秋の情景が、蜜柑の鮮やかな色と共に思い出される。

 

白鳥の群れ湧き出づる空の奥 麻里子

 季題は『白鳥』。この鳥は、寒い季節になると北から日本へ飛んで来る。冬の訪れを告げる鳥と言っても良いだろう。どんよりとした空を渡るその姿は、もの悲しくも穏やかな冬の景色にふさわしい。おそらく吟行か何かで、作者もこの空を見上げていたのだろう。すると突然、遠くに白鳥が群れをなして飛ぶのが見えた。何羽もの鳥が視線の先に現れるその光景は、文字通り「湧き出づる」という表現がふさわしいものであったはずだ。冬空の雄大さと、白鳥の優美さをこの句は見事に描いている。

 

年飾り小さきものがよく売れて 麻里子

 年末のデパートあるいはスーパーの情景。新年に必要なものを揃えるために買い物に来ると、正月の飾りが売られていた。見ると値段の高い、大きなものばかりが売れ残っている。小さな飾りは飛ぶように売れて、ほんのわずかしか残っていない。やはり安く買うことができる、小さなものを選ぶのが人情というものだな、と作者は思った。もう少し景気が良ければ、大きい飾りを買う客も増えたであろうに。生活者の視点を通じて、去りゆく年の世相のようなものが見えて大変面白い。

 

ヒーターの音のみ試験二分前 麻里子

 高校あるいは大学入試を受けた者ならば、試験前のあの静寂と緊張感はだれもが経験しているだろう。時計を見ると、試験開始までまだ二分残されていた。すると重苦しい沈黙の中、教室を温めるヒーターの音がふと耳に飛び込んで来た。普段は気にもとめないその機械音が、この日はやけに大きく聞こえる。この音と共に、教室を支配する不安と緊張感がいよいよ高まっていくようだ。まだ寒さの残る試験会場の、張りつめた空気がヒーターの音を通じて伝わって来る。

古雛の眉優しかり雨の寺 麻里子

 訪れた寺の外では、しとしとと春雨が降っている。お堂を濡らす雨は、もう冬のように重苦しいものではない。中へ入ると、昔から寺に納められていたものか、古い雛人形が飾られてあった。穏やかな笑みを浮かべるその顔に、眉が小さく描かれている。淡い光に照らされたその眉が、可愛らしくも優しいものに見えた。雛祭のみやびやかな雰囲気と、春雨の降る静かな情景が人形の微笑を中心に浮かび上って来る。

 

ベランダで吾子の散髪春の風 麻里子

 春の訪れと共に、子供の髪が伸びていることに作者は気付いた。窓の外を見ると、暖かな春の光が満ちている。これを見た作者は、久しぶりにベランダに出て子供の髪を刈りたくなった。子供を椅子に座らせ、後ろから髪を刈っていると、ちょうど一筋の風が吹いた。この風に乗って、ベランダに落ちた髪の毛があちこちに散らばって行く。厄介だと思いつつも、作者の眼には何とも心地よい光景に映った。散髪という営みを通じて、春の風のすがすがしさが牧歌的な春の情景と共に感じられる。

 

 以上、「できれば、自分もこのような句が作れるようになりたい」という視点から選ばせていただいた。これからも麻里子さんには、読む者を楽しませてくれるような句を生み出すよう、お子さんの成長と共に期待したい。